第22話 休暇

 三日後、真夜中の二時。

 机の上の地図は、もう数える気も失せるほどの量に達している。今にも崩れてきそうな紙束の前で、俺は最後の気力を振り絞っていた。

 今にも落ちそうな瞼、急に動かしたら壊れてしまいそうな体の節々、なぜか常に震えている体。疲労は限界に達している。

「あと少し、あと少し……」

 願望と期待が溢れてしまったのか、つい、そんな言葉がこぼれる。

 最後の都道府県として選んだのは、道路の少なそうな沖縄県だ。俺は好きな食べ物は  最後に残すタイプだから、自然と一番楽そうな沖縄県が残ってしまった。

 そんな沖縄県も、もう終わりに向かっている。

「あとはここを確認して……」最後の道路をマークし「終わったー!!!」

 俺は両手を上げ、心の底からそう叫んだ。

 忘れている都道府県がないことも確認し、俺はようやく、心の中を圧迫していた物が空気のように抜けていくのを感じた。


 終わった、終わったのだ。


 三日間続いた地獄。書いても、書いても、書いても終わらず、気の狂いそうになったあの作業が、ようやく終わったのだ。これ以上に嬉しいことは、今の世界に存在しないだろう。

 隊長も、俺とほぼ同時に終わったようだ。彼は三日前と変わらない様子で、山盛りになった灰皿にたばこを強く押し付けている。数秒ほどボーっと見ていたが、次の作業に移りそうな気配は微塵もない。

「本当に、終わったんだ……」


 ────長かった。本当に、長かった。


 俺は風化した石のようになった腰を上げ、明らかに血液の循環が悪くなっている体を動かし、隊長の元へ駆け寄っていく。

 一歩、一歩と進むたび、血液が体の中で加速しているような感覚を覚える。体の節々は、何かから解放されたようによく動き、さきほどまでの辛さはない。

 俺は座っている隊長の横に立ち、礼儀も何もかもを捨てた状態で話しかける。

「今日と明日、休暇をもらっても良いでしょうか」

「ああ、いいぞ」

 返答を待つ暇もなく、隊長は俺の言葉にそう答える。

 今にでも飛び上がりそうな気分だ。二日連続での休暇など、両手の指で数えるほどしかもらったことがない俺にとっては、贅沢品にもほどがある。

 俺は隊長の次の言葉を待たず、素早く頭を下げ、その勢いのままその部屋を出た。


    ◇


 数時間後、駐屯地の寝室にて。俺はあの後、すぐさま駐屯地に戻り、布団をかぶって死んだように眠っていた。

 不思議なことだが、三日間も徹夜続きだったのにも関わらず、俺の体は、数時間の睡眠で一切の疲れを忘れ去っていた。よほど眠りが深かったのだろう。

 軽くなった体を動かし、乾ききった目で時計の日時を確認すると、眠る前と同じ日の、午前十時を示していた。どうやら、日を跨ぐほど眠っていたわけでもないようだ。

「仕方ない……起きるか」

 まだもう少し眠っていたいが、今日と明日、俺はやりたいことがある。力を抜けば再び眠ってしまいそうな体を動かし、俺は駐屯地から出発するための準備を始めた。


 玄関口で靴を履いたあと、少し憂鬱な気持ちで外を見る。まだ、雨は降り続けている。心なしか、以前よりも雨粒の量が増えているように感じる。錯覚か。

 目的地を目指して歩いていると、いまだ回収されていない瓦礫の山が目に入る。聞いた話だが、瓦礫の撤去は、牛の歩みではあるが確実に進んでいるらしい。

 だが、どうしてもがそれの邪魔をする。そのせいで避難民から罵声を浴びることもあるらしいが、俺は遅れても仕方ないと思っている。なぜなら、俺自身が現場に立ち、その大変さを知っているからだ。

「雨さえ止んでくれればなー」

 予兆の雨なので、何かしらの要因がないと止むことがないのは仕方ないが、こういった災害を前にするたび、人間の災害に対する無力さを痛感する。

 例え特殊な手術を受けた俺たちでも、災害には抗うことはできない。

 アイスカイナを全員拘束できたとして、それから俺はどうすればいいんだろうか?


 ────ダメだ、しっかりしろ、俺。


 鬱屈した気持ちになっていたが、俺がそうなってはいけないと、抜けた空気を入れるように、胸を張って前を見る。

 復興は確実に進んでいる。現に、避難所である中学校周りのがれきの撤去はすでに完了している。あそこも以前は、炎と煙で酷いことになっていたのだ。人類の歩みは、完全に停滞しているわけではない。

「やっぱ雨はダメだな」

 雨が降るだけで、人の心はかすかに暗くなる。かすかに、だが、心に余裕がない今の俺たちにとっては、それだけで活力を奪う非常に強力な武器となる。

「もう少しだ」

 以前、一回通っただけの道なので、迷わず向かえるか心配だったが、見覚えのある並びの建物が散見されるので、どうやら間違えてないようだと胸を撫で下ろす。

 靴の中に雨水が侵入し始め、靴下が濡れていく不快感を覚える。自衛隊としての訓練で散々経験したことなので、昔ほど不快には感じないが。

 そんな状態で一軒の家の前に立ち、傷一つないインターホンを押し込む。

 服のどこかに雨水が溜まり始めるほどの時間が経過し、声をかけることもなく玄関の扉を押して出てきたのは、見覚えのある顔の老人だった。

「あんたは……エンドストップの?」

「久しぶりです。冥のおじいちゃん」

 白髪混じりの短髪、曲がった腰、こっちを見る鋭い眼光。白いTシャツと灰色のズボンを身に着けて出てきたのは、いつかの作戦で世話になった、冥の祖父だった

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