2001年5月5日 深夜
目的は特になかった。
いつもの様に大沼へと車を走らせる。
心の中に生まれた焦燥感を、どうにかして抑えたい。その点、大沼は俊介にとっての心の寄る辺だった。走り屋としての原点がここにあるので、ここにいるだけで不思議と心が落ち着いていく。
俊介はいつものように白鳥公園前で車を停め、外に立ってぼんやりと星空を見上げていた。先日の俊介の事故があったせいか、今日は他の走り屋たちの姿が見えない。ぽつんと一本だけある街灯が、寂しげな周囲の風景を照らしだしている。
「俺はここで……」
中学三年生になった時、ショウが夜遊びに誘ってきた。おそらくゲームセンター巡りか何かだろうと思ったら、知らない大人が車でやってきて、後ろに乗れという。
躊躇したものの、ショウが我が物顔で先に車に乗ってしまったので、仕方なく俊介も車に乗った。
そうして連れて来られたのが、この大沼だったのだ。
大人の男はそこで、相川と名乗った。走り屋だとも。
さすがに俊介も顔色を変えた。ショウは荒っぽいところも多かったが、まさか暴走族とも知り合いになっていたなんて思いもしなかった。
相川は笑いながら、自分たちは暴走族とは似て非なる、走り屋だと説明した。
俺達は街の中では暴走しない。人に迷惑をかけるような場所では乱暴な運転をしない。チームを組んで喧嘩するなんてもっての外。単純に車が好きで、人に迷惑をかけないで思い切り走れる場所が欲しくて、大沼まで来た、と。
相川自身の醸し出す穏やかな雰囲気もあり、俊介もそれが理解出来た。
聞けば、日々を新聞配達に明け暮れている俊介に新しい楽しみを教えたくて、ショウが頼み込んでここに連れてきてもらったそうだ。
俊介は、ショウの顔の広さには感心を通り越して、少し呆れた。
相川は笑顔のまま俊介に、助手席に乗れと手招きする。
そして半周コースの途中から、俊介は新しい世界を見た。
日常生活では全く体験することのないスピード。エンジンの高鳴りを感じる車内、マフラーの爆音すら気にならないほどの高揚感、ヘッドライトが闇を切り裂いて道路を走っていく緊張感。
その全てが、俊介を魅了した。彼の知っている車とは、あくまで移動用の交通手段であって、それ以上の価値を見出したことはなかった。だが、相川の車は違った。車が持てる性能の全てを発揮して挑む、速度への挑戦だった。
車とドライバーが力を合わせ、一つの目的のために走る。
そのシンプルかつ純粋とも言える走りが、俊介が日頃から父親に感じていた不満やわだかまりを、全て地平への果てへと置い去っていた。
車から降りた俊介は、足元をフラフラさせながら、もう一度走ってくれと相川に頼み込んだ。
そうして、俊介とショウは中学生ながらに走り屋の世界に入り込んだのだ。
「そんなこと、あったな」
誰に言うでもなく呟いた。
何のために走っているか、という疑問に突き当たり、俊介は原点まで戻ることにした。
大沼は俊介にとっての原点に違いない。
だが、ここに来てもまだ、その疑問の答えは見つからなかった。ここで見つけたのは、走り屋になるきっかけではあるが、走り続ける動機ではない。
「俺はなんで走っているんだろうな」
車に背中を預けてため息をつく。
――やはり俺は過去を追い求めていて走っていたのだろうか。そこまでの人間だったのだろうか。だから相川さんにも勝てないのか。
頭が重くなってくる。胸も苦しい。悔しさが全身を駆け巡り、俊介の眉根に皺を刻む。
どうしてこんな事になったのだろう。家庭環境に問題があったのはわかる。夢に挑むことも出来ずに不貞腐れていたこともわかる。何度も就職試験に失敗して自信をなくしたということもあるのだろう。モチベーションが下がる理由は探せば幾らでも出てきた。
それでも、俊介は走り続けた。
なぜ走るのか?
そんな単純なことさえ見失って、それでも俊介は走ることだけは止めなかった。その理由はどこにあるのだろう。
おそらくはそれが俊介の原点、今の俊介に一番必要なものだった。
「俺の原点は――大沼じゃないのか?」
顔を上げた。ここで見つからないのなら、函館中を走り巡って見よう。
俊介は運転席に戻るとシートベルトをかけて、市内の方に向かって走りだしていった。
※
最初は函館山に向かった。
だがここには、あまり走り込んだ記憶がない。道が狭い、木々が鬱蒼としていて見渡しが悪く、一般車もよく通るので事故を起こしやすい。そう最初に相川に教わったからだ。
次はドリフト場を巡った。
数日前、警察とカーチェイスをやった西埠頭近辺。
冬場はドリフトの練習のために訪れるが、これと言った思い出はない。
次に向かったドリフト場は、産業道路沿いにある函館流通センター。知り合いが逃げるのが遅れてパクられた場所、という程度の記憶だ。あとこの周辺には暴走族がいるので、冷やかし半分でその行軍を眺めに行くぐらいしかない。
「外れか」
小さく呟いて、車の方向を転換。国道5号線、函館新道とも呼ばれる道路に入り、すぐ近くにある駐車場の前に行く。ここは大型トラックの運転手が休憩するためにあるが、ゼロヨンと呼ばれる競技をするには向いている場所である。400メートルを走り抜け、そのタイムを競うのに向いている直線なのだ。
だが俊介はゼロヨンにさほど興味がなかった。突き詰めれば深い競技らしいが、コーナリングもない直線勝負は、ほぼ車の性能で決まる傾向がある。それを面白いとは思えなかったかのだ。
「ここも違う」
どれも俊介の走る理由を探る場所ではなかった。
他に思い出の有りそうな場所はないか脳内に函館の地図を広げ、思い出してみる。
あとは城岱、きじびき高原、
そのどちらにも、深い思い入れはない。初めて大沼に行った時以上の、強いインパクトのある場所ではないのだ。
車を運転しながら、俊介は親指の爪を噛んだ。行き詰まりだ。
どうして走っているのか、という単純な問題の答え。それが見つからない。
見つからないと、自分がただブリリアントブルーという、過去の幸せを象徴する色にすがって走っているだけの人間になってしまう。
それだけは、嫌だった。
携帯電話を取り出して時間を確認する。23時を過ぎていた。
「ん。この時間なら、相川さん大沼にいるかな」
相川に相談しよう。そうすれば何か良いアドバイスがあるかも知れない。どうして走るのか、という問題は、どんな走り屋だって抱えている問題なのだ。参考までに聞ければ何か分かるかも知れない。
メモリから相川の番号を呼び出して、コールする。数回のコールのあと、
「ああ、ショウかい? 今日はどうした」
「ちょっと相談したいことがあって……大沼にいますか?」
「いや、今は横津岳にいるよ」
「横津岳? 峠でも攻めてたんですか」
「いやぁちょっと頼まれごとしててね。良かったらショウも来るかい? 面白いものが見れるよ。航空監視レーダーがあるところにいるから」
「わかりました。そっちに向かいます」
横津岳とは七飯から更に東北に進んだところにある山だ。俊介たちにとっては道南にある数少ない峠にしか過ぎないが、中腹にスキー場があるために冬になると多くの観光客が集まる。また函館市内にある学校のほとんどが、冬の遠足の場としてここを選ぶことが多いので、道南生まれの人間にとっては馴染み深い。
頂上付近には、航空監視レーダーがあり、さらには携帯電話会社や官庁の無線局が設置されている。その辺りまで行くと勾配も緩やかになり、辺り一面に草原が広がっているだけだ。
俊介は携帯電話をポケットに入れると、ハンドルを切って横津岳に向けて発進した。
「横津岳……」
ぼんやりと道筋を思い出す。だが、何か心に引っかかるものがあった。
思い出せないもどかしさを無理やり飲み込み、S15は民家が立ち並ぶ街を抜け、暗闇に包まれた山へとヘッドライトを向けた。
ふと思い出したが、横津岳には苦い思い出があった。
車を買ってしばらく、色々なコースを試走していたのだが、ここ横津岳で雪山に突っ込んだことがある。吹雪が激しく視界の悪い日で、突然舞い上がった雪が視界を完全に覆いさり、パニックで思考が停止した隙に車が路面を飛び出してしまったのだ。
周囲が野原で何もなくて助かった。
路面を外れた車体は雪をかき分けて突き進み、積もり積もって小高い山のようになっていた雪の塊に突っ込んでようやっと止まったのだ。
幸いなことに俊介自身にも車にも異常はなく、視界を奪われることの恐怖を改めて噛みしめる結果となった。
そんなことを思い出しながらハンドルを40分ほど握っていると、横津岳の麓に辿り着いた。ハイビームライトをつけて山道を登っていく。
5月になったというのに、路面から外れた野原には溶けきっていない雪があった。枯れた草やこれから芽吹こうかという花々の隙間に隠れるように、冬の残り香を残している。
時間が時間だけに対向車もなく、思うように走れるのは気分が良かった。もともと道幅があまり広くない車道で、上りと下りがすれ違うときはどちらかが徐行して道を譲らねばならない道だ。そこを対向車線を気にせずに走れるのは気が楽でいい。
夜道をライトで切り裂きながら俊介は、相川が言っていた面白いこととはなんだろうと考える。あんな野原しかないようなところで、何か面白いものがあっただろうか。
広い野原に、航空監視用のレーダー基地と、その職員が使う駐車場。それぐらいしか思い浮かばない。峠を攻めるときに有効なテクニックでも閃いたのだろうか。
やがて目的地であるレーダー基地が見えるようになってきた。特徴的な球状のレドームが星空の下でもはっきりと分かる。
その下で、車のライトを思わしき光も見えた。おそらくは相川の車だろう。
俊介はその光を目指して走った。
違和感を感じたのは、相川の愛車であるFC3Sの挙動に不審が見えてからだ。
おそろしく低速で、自転車で走ったほうが早いくらいの低速で、ぎこちなく、のろのろと前進している。アクセルを踏む足が安定していないのか、エンジン音も一定ではなく今にも回転が止まりそうな弱々しさ感じを受ける。
――ド素人だ。
俊介は直感した。初めて車に乗って、アクセルを踏んだ時でもなければああも無様な運転はしない。
「相川さん何やってるんだ……」
小さく呟きながら、俊介はFC3Sの側に車を近づけた。すると相川の車も止まった。
俊介はシートベルトを外し、ドアを開けて外に出た。想像以上の寒さに身体を震わせながら、相川の車へと近づいて運転席側を覗きこむ。すると、
「やあ、ゴメンゴメン。こっち」
助手席側のドアを開けて相川が声をかけてきた。
「相川さん? じゃあ運転は……」
先ほどの無様な運転は相川でないことになる。俊介は運転席に座っている人物の顔を覗き込むと、あきれ果てた声が出た。
「またお前か」
「一日に三回も。奇遇だねえ」
運転席には堀井が乗り込んでいた。彼は緊張して固まっているが、だが興奮に満ちた顔色で挨拶をしてくる。
「どういうことですか、相川さん」
「シュン、昼間、堀井にアクセル踏ませただろ」
「はい。昼にゲーセンで」
「もっとアクセル踏んでみたいって彼に頼まれてさ」
「アクセル踏むだけなら適当な駐車場でいいじゃないですか」
「それがさ、話を聞けば彼は原付きの免許しか持ってないっていうじゃん。ならアクセル踏むだけと言わずに、軽く運転させてみようと思ってね。――どうだい堀井、初運転、おまけに無免許運転の感想は」
堀井も運転席から出てきて、俊介らと向き合うように並んだ。右脚を持ち上げて、足首を上下させながら言ってくる。
「なんと言ったらいいか……感動しました。同じ乗り物でも原付きとは全く別物ですよ。足の少しの動きにも、エンジンが生きているように反応する」
「バイクの加速は、あれはあれで病みつきになるんだけどね。車も面白いでしょ」
相川は得意気な笑顔を見せた。
「あー、こんなことなら僕も普通免許とっておくべきだった」
「学割効くから大学にいるうちに取っちゃいないよ。将来、東京に行くらしいけど、どこに行ったって車は運転できた方が便利だし」
「そうですよね。自動車学校行くためにバイトしようかな」
深々と考え始める堀井。それを横目に俊介は相川に近づいて呆れた声で告げた。
「相川さん、いきなり素人に運転させるなんて危ないですよ。あいつアクセルとブレーキを踏む足も知らなかったんですよ」
「そこは大丈夫。大丈夫」
根拠もなしに相川は気軽な声返してくる。自分の首筋に手を当てて思い出すように目を閉じながら、
「シフトチェンジはさせてないから。1速で走らせただけだよ。それに、いきなり運転させても平気な奴も居たしね」
そう言われては俊介は言い返せなかった。堀井と同じように、いきなり横津岳に連れて来られて、運転させられたのが俊介の初めての運転だ。
「でも堀井、控えめに言っても下手でしたよ。見てて冷や冷やしました」
「ま、そこが持って生まれたセンスの違いだろうね。シュンが数分練習しただけでクラッチのコツを掴んだ時は、『こいつは持ってる』って思ったよ」
「ん? 速見も無免許から始めたの」
思考の海から抜け出た堀井が話に混じってくる。俊介はそんな話はしたくなかったが、昔のことを思い出して相川が穏やかな笑みを浮かべて話を続ける。
「そうだよ。シュンが高校一年になった時に、進学記念だって言ってここに連れてきて無理やりハンドル握らせた。――ああ、あの時はショウも一緒だったか。ま、俺らと一緒に走り屋やるのなら、運転を覚えるのは早いほうがいい」
「僕みたいに横に乗って指導してたんですか」
「そう。最初はこの横津だった。事故る心配もない何もない野原だし、警察もこないから安心して教えることが出来たよ。さすがに街中じゃあこうはいかない。ここで三ヶ月ぐらい、みっちり鍛えた」
相川の言葉に導かれるように、俊介の脳裏に初めて車に乗ったときの情況がまざまざと蘇ってきた。
最初は1速だけでこの野原を走った。クラッチを覚えてギアチェンジ出来るようになってからは、野原を大きく端から端まで使って3速までシフトを上げて走るようになった。エンストも起こさなくなり野原での走行が問題なくなると、峠を走るようになった。峠では全てのシフトチェンジを使い、上りと下りを練習した。
そうして、パトカーがこないのを確認してから、夜の街を走るようになった。
たった三ヶ月でそこまで上達したのだ。
相川も俊介の上達ぶりを見て楽しんでいたようで、自分が大沼を攻める時間を減らしてまで、俊介の運転に付き合ってくれた。
思い返せば無我夢中だったと思う。厳密に言えば、車を運転出来るのが楽しくて、夢の中にいるような気持ちでいた。
「それからは、ハンドルを預けるのは月に一度か二度だけに決めた。――さすがに高校生に毎日運転させたら危ないからね。その時にはもう、助手席に居ても何も言うことはなくなったかな」
その月に一度か二度の運転が楽しみで、俊介は生きてきた。
父親との陰鬱で険悪な日々も、母親を喪った悲しみも。
退屈な日常も、押し寄せてくる不況という時代も。
運転がしたい、というただ一心で乗り越えられた。
「あ……」
不意に、俊介の口から、自分ですら思いもしない声が漏れた。
胸が高鳴っていく。五感が研ぎ澄まされて、自分の身体の中に流れる血流の音さえ聞こえなそうなほど。
何かを掴んだ、その実感があった。
手のひらが熱い。唇も、耳も。
瞳の奥から暖かいものがこぼれ落ちてくる。
「シュン……?」
「速見?」
不思議そうな目でこちらを見つめてくる相川と堀井に、俊介は大したことないと告げて親指で涙を払った。
二人に背中を見せて、遠くにある函館の光景を眺める。
横津岳から見える函館の夜景は、地元の人間からは裏夜景とも呼ばれている。函館山から見える光景とは、また違う様相を見せるのだ。
時間が止まっていると思い、忌まわしく感じていた、街の光が眩しく見えた。
夜空に輝く星々のように、一つ一つの街の光が、宝石を地上に散りばめたように美しく感じる。
――この街は、こんなにも綺麗だったんだ。停滞していたのは街ではない、俺だ。
俊介は大きく深呼吸した。山の澄んだ空気と、微かに残っている雪の香りが身体に満ち満ちていく。
「堀井」
振り返って短く尋ねる。
「車って楽しいか」
「楽しいよ!」
堀井も笑顔だった。いつの間にか忘れていた。自分もあのような幸せな顔で運転をしていたのだ。
「よし、じゃあ今度はS15に乗って試してみるか」
「お願いするよ」
俊介は歩み寄って堀井の背中を軽く叩いた。よろめきながらも堀井は笑顔を見せる。
「シュン、お前……」
相川の目が驚きに開いて、そして優しい笑みに変わった。
「昔の顔に戻ったな。不貞腐れる前の、良い顔に戻ったよ」
「思い出したんです」
俊介は運転席に堀井を押し込んでから、顔を上げて相川を見つめた。
「車は楽しいんだって」
車は楽しい。
それだけでいい。
それが俊介の走る理由。
この気持さえ見失わければ、きっといつまででも、どこまででも走り続ける事が出来るだろう。
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