2001年5月5日 昼

 翌日、七崎喜久子はいつものように出勤して、ビデオ屋のカウンターに構えていた。

 例によって客足がまったくなく、有線のクラシックBGMだけが優雅に店内に流れている。

 そもそもこの店は立地が悪い。

 大きな駐車場のあるコンビニに背中合わせにひっそり建っており、コンビニに車で来客した人は、裏にこんな店があるとは気付きもしないだろう。

 くわえて大手チェーンとは違い、完全に個人でやっている店舗なので、派手な看板やのぼり旗もなく、夕方になれば何の店舗かすら分からないほど地味なのだ。

 こんな店なので、夜になると眩しく輝くコンビニに存在を食われてしまうのは仕方の無いことなのだろう。

 そして揃えている商品もマニアックすぎた。

 レンタルビデオ店で最も売上効率が良いのはアダルドビデオだが、ここにはそんなモノは一本たりとも置いていなかった。名作過ぎて逆に手に取る機会が減ってしまった殿堂入り作品や、大手チェーンでは扱わないようなB級作品ばかりが並んでいる。

 ──金髪巨乳美女が何故かジャングルに迷い込んだ作品や、人食い巨大ヘビが主役の作品なんて誰が好んでみるのだろう? とさすがに喜久子も首を捻った記憶がある。

 昨年話題になった『もののけ姫』のような大作は一応置いてはいるものの、あまり出る機会はない。

 彼女自身としてはアダルトビデオがないのはありがたい事だったが、貰える給料のことを考えるとさすが真剣にならざるを得ない。

 アルバイトを始めて間もない頃、店長にさりげなく売上げについて尋ねた事がある。

 すると、そもそもこの店は完全な趣味だと返事があった。

 店長の祖父は市内にある幾つかの不動産を持つ地主であり、それらを遺産相続したことで彼は生活に困らないだけの財産を得てしまった。この店舗も財産の一つだ。

 当時は古書を扱う店であったが、潰れる寸前だったので、思い切ってビデオ屋にリフォームしたのが今の姿だという。その際に自分の好みを反映させて、アダルトを廃止し純粋に映画を楽しめる品揃えの店にしたのだ。

「そういう意味で完全に趣味の店なのさ」

 店長はそう言って笑った。

 そしてその通り、客層のほとんどはB級映画マニアだったり、話の内容を断片的に覚えているがタイトルを忘れてしまった人たちも居て、わずかな情報からタイトルを推理しなくてはならない事もある。名作なら彼女でもすぐにタイトルが分かることもあるが、莫大な映画のタイトルを全て覚えているわけもなく、棚に並んでるビデオのパッケージを眺めながら、頭をフル回転こともあった。彼女の仕事といえば後者の方が比較的多い。

「これでDVDも増えたら大変よね……」

 喜久子の呟きは、静かな店内に吸い込まれて行く。

 先日、俊介とドライブ出来たのは彼女の中で大きな出来事だった。異性と二人きりでドライブは初めての経験だった。胸の高鳴りが収まらず、ベッドに入った後も頬の暑さが抜けずになかなか眠ることが出来なかった。

 幸いなことに今日も一人で居られるので、そのことを表情に出していないと喜久子自身は思っているた。もし店長や堀井がいたら動揺が顔に出てしまうかもしれない。

 だが、わずかな間だが、俊介の瞳は自分で無く、どこか遠くを見ていた事も彼女は気付いていた。

 ──何を見ていたのだろう?

 空と海。水平線がオレンジに染まり、海と空の色が一層深くなり紺色とも夜の色とも言えない蒼に染まった世界に、何を見たのだろうか。だが俊介のことを深く知らない彼女には知るよしもない。

 その時、店の外から車のエンジン音が聞こえてきた。コンビニの客では無い。明らかにこの店の駐車場に止まっている。

「こんな時間に珍しい」

 思わず呟いて、外に目を向けた。喜久子自身は知らないが一般的な4ドアのセダンが止まっていた。

 ドアが開くと中肉中背の中年の姿が見えた。上着を着ていないせいか若干痩せ細っているようにも見える。

 中年は迷っているかのように重い足取りで自動ドアの前に立った。

「いらっしゃいませ」

 入場音とともに喜久子が声をかける。中年はちらりと彼女を一瞥したのち、ゆっくりと店を一周して歩いた。そしてその後、顎に手をやり、真剣な眼差しで棚を睨みながらもう一周する。

 作品のタイトルを覚えていない人だろうか、と喜久子は思った。B級映画目的の人はあんな真剣な瞳はしない。不思議なのは瞳こそ真剣だったが、表情がほとんど動いていないことだ。

 男は洋画のビデオを一本ずつ手にとり、パッケージの裏を確認していく。そして何かが違うのか、ため息をしながら元の位置に戻す。

 そうやって広くも無い店内の棚を二つほど探したころ、明らかに肩を落として踵を返して自動ドアに向かおうとした。

「あの……もしかして何かお探しでしょうか?」

 喜久子は声をかけた。

「タイトルが分からないお客様も結構いますから、内容が少しでも分かれば見つかるかもしれません」

 男の足が止まる。そして今、初めて喜久子の存在に気がついたように視線を送ってきた。喜久子は促すように頷く。

「古い映画なんだが……タイトルが思い出せなくて」

 覇気のない声で返事があった。

「はい。古い映画ですね。白黒の映画ですか?」

「いや……そこまで古くない。カラーだった」

「ハリウッドみたいに爆発する感じですか?」

「……そういうのはなかった気がする」

 言葉のキャッチボールとはほど遠いぶっきらぼうなやりとりだが、喜久子は特に何も思わなかった。何かを思い出そうと記憶の底を探している人は、自分の思考に浸かっていて対人的なやりとりはどうしても一方的になる。

(ハリウッドじゃなくて古い映画……ヨーロッパ映画かしら)

 頭の中で情報を整理しながら、喜久子は質問を続けた。

「主人公がどんな人か覚えてますか」

「老人……と少年だったと思う」

 言葉にすることで自分の中の情報を整理出来たのか、男の口が若干熱を帯びてきた。

「そうだ。トトという名前の人が出てきたはずだ」

「トトですね……」

 今度は私が考え込む番だとばかりに喜久子は脳をフル活動を始めた。

 ヨーロッパ系の映画、老人と少年、トト……。

 ──知ってる。私はこの人の言う作品を知っている。

 そう、喜久子も見ている確信があった。

 挿入曲がとても美しい映画だったはずだ。何のきっかけで見た映画だったのか。

 あれは確か、いつも通り適当なビデオを手にした堀井が奥に籠もって、勝手に鑑賞会を始めた時だ。二時間ほどして堀井が駆けつけてきて、

『キッコくん! これは絶対に見るべき映画だ! テレビ放映されてないのがおかしいくらいだ! 言葉に出来ない芸術だよ!』

 鼻息荒くやってきて熱烈にもうプッシュされたのだ。エンタメを追求しているはずの彼の目には涙が滲んでいて、その勢いに飲まれて喜久子も見たのだ。

「ジュゼッペ監督の、そう……」

 喜久子はカウンターから出て名作が並んでいる棚に歩いて行き、中央ややにある棚から一本のビデオを取り出した。

 パッケージにはおじいさんと子供が仲良く自転車で二人乗りしている写真。

「多分これだと思います」

 喜久子は両手で掴んだビデオを差し出した。

「『ニュー・シネマ・パラダイス』……これで間違いないと思います。良かったら最初の場面を確認して貰っていいですか?」

 喜久子はパッケージからビデオテープ本体を取り出し、カウンターの上に置いてあるビデオセットに入れた。再生ボタンを押してややすると、

「……これだ……」

 男がうめき声を上げた。唇がわなわなと震え、小刻みに手も震える。

「これを借りるよ。ありがとう店員さん」

「はい、ありがとうございます。会員証はございますか」

 ほっとした笑みを浮かべ喜久子はカウンターの内側に戻った。自分の胸にあるネームプレートのバーコードを読み取り、パソコンの管理画面を起動する。

 男は尻ポケットから財布を取り出し、会員証のカードを手渡してきた。カードのバーコードを読み取り、男の姓名やレンタル履歴が画面に表示される。その名字を見て、今度は喜久子が息を呑んだ。

「……速見さん」

「はい」

 男は──速見敬司という名前だった。速見という珍しい名字はそう多くない。ましてや人との少ない田舎の函館だ。間違いなく速見俊介の父親だ。

 思わぬ遭遇に動揺しながらも、喜久子はレンタルの手続きを始めた。声が震える。

「二泊三日でよろしいですか? 旧作なので二百円になります」

 敬司が頷く様子を見ながら、ビデオカセットを袋に詰める。同時、レジの上に料金が置かれた。喜久子は喉の奥から出そうになる言葉をぐっと飲み込み、営業スマイルを浮かべて袋を手渡した。

「ありがとう店員さん」

 敬司が言った。先ほどと変わらず覇気を感じないが、わずかながら温かみを感じる声になっていた。小脇に袋を抱え自動ドアから出て行く。やがて車のドアが開き、閉じる音が聞こえ、エンジン音は遠くへ消えていった。

 鼻から大きく息を吸い、胸を膨らませてから喜久子は大きなため息をついた。

「速見君のお父さんですか? なんて聞けないよ……。プライバシーの問題だし、あまり仲良くないって噂も聞いたことあるし……」

 壁に背中を預けながら、喜久子は眼鏡を外して天井に視線を送った。

「好きな人のお父さんって……どうやって挨拶すればいいのかなぁ」

 近視でぼやけて見える時計の針は、まだ午後二時を過ぎた頃だった。

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