2001年5月6日 朝
ヒロシは全身に熱を感じて目を覚ました。額から汗がこぼれ落ち、背中からもシャツににじむほど発汗している。
分かっている。いつものことだ。子供の頃からそうだった。大きなイベントを目の前にすると、身体が興奮してこういう状態になるのだ。
ましてや明日、レースを直前に控えている──こうなることを予想してた彼はシャツを脱いで、枕元に置いてあった代わりのシャツを身にまとい、立ち上がった。
市営住宅の2DKの一室で、居間を挟んで母親の部屋があり、玄関のすぐ脇に風呂場やトイレ、洗濯機置き場などの水回りが集中している構造だ。
三階にある部屋からカーテンを捲ると、朝日がわずかに昇ってきているのが見えた。まもなく朝だろう。
濡れたシャツを片手で掴むと、寝ている母を起こさないように静かに部屋から出て、居間を通って洗濯機置き場まで歩く。そしてそこに置かれているランドリーバスケットに適当にシャツを放り入れた。それから居間に戻り、室内用物干しロープにかかっている自分のタオルを手に取ると、水道で濡らして汗でべとついた額や首筋を拭く。
──大人になったんだし、いい加減治って欲しい。
とは思うものの体質的なものなので半分は諦めていた。極端に汗が噴き出るだけで、特別に熱が出て寝込んだりするわけではない。病気というわけでないのなら平気だ。
「ヒロシお前ぇ肝っ玉が小せえんだよ。舐められねえように気合い入れろよ」
かつてショウに言われた言葉を思い出す。確かに自分は少し気の弱いところがあった。だから初めての一人暮らしの時は、あえて何事にも強がってみせた。知らない土地で慣れない仕事に苦戦している時も、陰口を言われる事はあれど、そうしていれば舐められることはなかった。それで二年間、なんとか過ごしてきた。
ヒロシは台所に立ち、昨日の残りの味噌汁を温め始めた。少し早く起きてしまったが空腹を感じている。
ふと、気配を感じて後ろを振り返ると、母親も目を覚ましたところだ。
「母ちゃんおはよう」
「おはようヒロシ。お腹空いたの?」
「うん。朝は俺が作るよ」
炊飯器の蓋を開けてご飯が残っているのを確認し、冷蔵庫から残り物を取り出す。
「料理出来るようになったんだね……」
「温めるだけだよ。料理なんてもんじゃない」
感慨深い母親の声を背中に受けながら作業する。数分後には少し早いが朝食が出来上がり、居間のダイニングテーブルに乗せられた。ヒロシがテレビを付けてニュースを確認しながらカーテンを開けると、朝日に照らされて朝食が温かな湯気を立ち上らせていた。
「明日は……晴れか。良かった」
「レースの日だったよね。天気で良かったよ」
実家に戻ってきた時、母親は息子の姿を見て素直に喜び、すき焼きを作って持てなしてくれた。だがレースの話を聞くと目に見えて肩が落ちた。
父親は交通事故で亡くなっているのだ。レースと聞くとどうしても恐い。
「心配いらないよ」
味噌汁をすすりながらヒロシは続けた。
「ちゃんと警察の許可はとってあるし、プロのドライバーや大勢の大人がいる。本当に危なくなったらストップかけてくれるよ。それに──」
笑顔を見せて、励ますように告げる。
「あの車は本当にすごいんだ。事故なんか起きないよ。それからレースが終わったら、きちんと仕事探すよ。今度は道内でさ、雪道走りながら仕事するんだ」
「……怪我がないのが一番だからね」
「分かってるよ」
しばらく見ないうちに、母親の姿も小さく見えた。白髪こそ生えていないが、顔に刻まれた皺が流れた年月を物語るようだった。
思えば母親には心配ばかりかけてきた。
小学生の頃、ヒロシはいじめに遭っていた。それを心配される自分が情けなくて、中学の頃は悪い連中をつるみ始めた。それでいじめは解決されたが、別の問題が発生した。
万引きや暴行事件、喫煙が当たり前の本物の問題児と一緒にいるのには、ヒロシの性根は善良すぎたのだ。人を殴ったり万引きする度に良心が痛んだ。そしてその輪から抜け出すのも恐かった──足抜けしようとすると私刑《リンチ》が待っている。
結局、そこから抜け出せたのはショウのおかげだ。信じられないことに単身で彼らを豪快になぎ倒し、ヒロシの性根を見抜いて相川のチームに引き入れたのだ。
ショウはもちろんの事だが、様々な年代の仲間が増え、純粋に車好きな彼らに影響されて、ヒロシも自分の車が欲しくなった。その中でも車に全てを賭けているような俊介の姿には、スポーツマンを見るような憧れを持った。
憧れを持つと人は変わる。
日に日に明るくなっていく息子の姿を見て、母親は安堵しただろう。
相川のチームは温かかった。
だから旅立つ決心も出来た。俊介が自分の車を手に入れたと聞いた時、自分も続こうと素直に思えた。どんな困難が待っていても自分の車を手に入れて、彼と勝負したいという願いは、ヒロシの人生の中に芽生えた輝きだった。
「ごちそうさまでした」
二人で手を合わせて、食器を台所に置きながらヒロシは思い出したように告げる。
「母ちゃん今日もパート?」
「そうだね」
「車で送るよ」
父親という大黒柱を失ったヒロシの家は、長らく生活保護を受けていた。しかし母親はその制度に甘えるだけでは無く、スーパーの鮮魚コーナーでパートをしていた。
「乗ってくれれば、あの車の凄さが分かるって」
「そんなもんかねぇ」
母親は立ち上がり食器を洗い始めた。それが終わると歯を磨き、洗顔をして仕事に行く準備を始める。化粧が禁止されている職場ので、せいぜい化粧水と保湿液ぐらいしかつけるものはない。
ヒロシも自分の部屋に戻って携帯を確認した。本州で出会った雑誌編集者からの事務的なメールが届いていた。と言ってもレースの仕切りなどの詳細は相川に投げてしまったので、彼自身がやるべきことはほぼ無い。当日遅刻しないように早めに現場入りして欲しいという旨だった。
布団を畳んで押し入れに片付け、カーテンを開けて室内に日光を取り入れる。そこで台所が空いたのでヒロシも歯を磨き、顔を再度洗う。丁度その頃、母親の準備も終わったようで、小さな鞄を片手にテレビを見ている。
「母ちゃん行くよ」
車のキーを握りヒロシは声をかけた。母親は車は持っていないという生活保護の契約上、愛車は市営住宅の駐車場に置けない。少し歩いた駐車場に停めてある。
「あんた内地ではどんなテレビ見てたんだい?」
階段を降り、駐車場に向かいながら雑談する。
「ほとんど見てなかったよ。テレビ局がもっとあるイメージだったんだけど、全部で四局ぐらいしか映らなくてさ」
「大変だったのね」
「有るものと言ったらパチンコ屋ぐらいで、付き合いで数回行っただけで飽きたよ」
「じゃああんた休みの日はどうしてたの?」
「だいたいは教習所で免許取る勉強してた。あとはコンビニで立ち読みかな?」
そうこうしているうちに、二人はランサーエヴォリューションⅦの前に辿り着いた。
鍵を開けて運転席に乗り込むと、ヒロシは助手席の扉を押し開けて母親に入るように言う。息子の車に初めて乗った母親は、嬉しそうな表情を見せながらシートベルトを付けようとしたが、なかなか上手くいかない。
「母ちゃん、もうちょっと後ろ。左肩の後ろ側の方にシートベルトあるから」
「あ、これね」
言われてすんなりと装着する。ヒロシは自分の隣に母親が座っているのが、どことなく面映ゆかった。授業参観に来られているような気持ちだ。だが同時に誇らしい思いも湧いてくる。
──車を持てるようになった。これで少しは楽をさせてやれる。
ヒロシにとって車という存在は、絆のようなものだった。
情けなかった自分を救ってくれたショウへの絆。
仲間として受け入れてくれたチーム全員との絆。
そしてこれからは、母親を送り迎えするであろう親子の絆。
これだけの想いを乗せて走り続けるのだろう。
そして、だからこそ分からない。二年間くすぶっていた速見俊介は、車に何を見いだして走っているのだろう。
それが分かるのは、間違いなく明日のレースだ。結局のところ、走り屋は走りで自分を証明するしかない。
母親を気遣い、優しく運転するヒロシだったが、その目はギラついていた。
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