蘇る過去

 あの日の記憶は、些細なことで蘇る

 ざわつく教室の中、一人思考を巡らせる駿。

 教室には、駿への陰口とは言えない陰口で溢れかえっていた。

 「あれはないわ」

 「そうっすね。あれは宮原っち激怒っすね」

 「女の肌傷つけるとか、あり得ないし」

 「お気の毒っすね」

 「どっちが?」

 「……今の流れでどっちって……」

 特に、一軍女子のライム、恋心ココの声は駿の心をえぐった。

 (……言われて当然だよな……)

 ぽつんと一人憔悴しょうすいしきってしまった。

 

 遡ること一五分前。

 授業が始まり、英語兼担任教諭の塩井先生が号令を済ませて軽い雑談が始まる。

 担任教諭: 塩井りいあ

 駿のクラス担任である。そのおっとりとした性格と生徒に甘い教師であるため、「甘い先生」とよく言われている。

 そんな駿は一筋の汗を垂らした。

 別に英語が苦手というわけではない。

 ただ、この——英語の授業方法についてだ。

 一つ目は、文法のワークを使いひたすら問題を解く演習型。

 二つ目は、英語で会話をするコミュニケーション型。

 演習型であれば黙々と問題を解いていればいいが、コミュニケーション型であれば、そうもいかない。コミュニケーション型は隣の席の——愛華と話すことが出来るのだ。

 (授業という名のアドバンテージを活かす。これが俺だ)

 こんな事を考えながらも、駿には目的があった。

 (俺は——愛華を救ってやりたかったい! 昔のようにならないために。そのためには、対象とのコミュニケーションが必要不可欠。頼む! コミュニケーション型であってくれ!)

 神にもすがる思いで祈る。 

 「はいそれては、関係ない話置いといて。授業をしますね。うーん、今日は——」

 甘い先生……てばなく、塩井先生が思案しながら生徒を一瞥する。

 「……決めました。今日は皆んなで英会話をします!」

 アイドル顔負けのキメポーズを決めてくる。その動作が恥ずかしかったのか、咳払いをして誤魔化していた。

 「うッうん。では、隣の席の——」

 「よしっ!」

 駿はガッツポーズを決めて……

 「——にしようと思いましたが、入学して日の浅い皆さんのため、今日は自由に好きな人と会話してください」

 (ガーーン!)

 塩井先生の言葉に机に突っ伏し落胆する。

 これは計算外だ。駿には友達がいない。どんな人でも友達の一人いるだろう。

 しかし、学校一の美少女の隣の席は、羨ましがられ、妬まられる宿命なのだ。

 駿が途方に暮れていると、一人の少女が近寄ってきた。

 海のように青い髪を二つ括りにした、アクアマリンの瞳の少女。どうみても高校生に見えない童顔。

 駿の妹の鳴霧渚だ。

 だからといって、双子というわけでも年子でもない。渚は駿の義理の妹だ。ただし、年齢は一三歳。

 これも学園の特別制度の一つだ。

 聖光輝学園には、飛び級制度が存在する。毎年数名生徒が飛び級してくるらしいが……今年は渚だけのようだ。

 「お兄ちゃんは、相変わらずぼっちしてるんだね」

 渚のあっけらかんとした言葉が胸に突き刺さる。

 「う、うっせ」

 「もおー、お兄ちゃんは私がいないとだめなんだから〜」

 反抗するも渚が駿の腕に絡みつき、嬉しそうに体をゆすってくる。

 そう、この妹様。実は、重度のブラコンなのだ。

 駿も渚のことは嫌いじゃない。むしろ、家族として大好きなのだ。しかし、ここで「渚、愛してるぜ」とでも言おうものなら『シスコン』『ロリコン』などと、不名誉なことを言われかねない。

 (そういうのは、お互い一八になってから……って、何考えとんねん!)

 駿は自分自身の心に盛大なツッコミを入れた。

 (危うく、妹の毒牙にやられるところだった)

 駿が一人葛藤していると、星良と彩芽が愛華をブロックしていた。人を寄せ付けない気だ。愛華の周りには大半の生徒が群がっている。

 完全に出遅れた。

 渚は駿がべったりになりながら、駿の脇腹を人差し指でくるくるしてくる。

 動けない。

 「お姉様、私とやりましょう」

 「星良抜け駆けすんじゃねぇよ。姉さん、あーしとなんだから」

 星良と彩芽が口論する。

 普段仲のいい二人だが、愛華のこととなると熱くなりすぎる節がある。

 愛華は二人の言い争いに目を輝かせている。

 (星良さんと彩芽さんが私を求めて……いいいいですわ)

 最近同じようなことがあった気もするが……それはそれらしい。

 内心のニヤケが漏れ出してしまいそうなのを押し殺し、お嬢様モードで星良と彩芽を宥める。

 「……お二人とも。お気持ちはありがたいのですが……いえ、ありがたいのでご一緒にいかがですか?」 

 なんだか主語がないためかこの部分を切り取ると、そういう会話にしか聞こえなかった。

 駿は愛華ばかりに目がいってしまっていたのだろう。渚が眉をしかめ、プクーっと頬を膨らませていた。

 「私というものがありながら……宮原さんばっかり、みてんじゃないわよ!」

 「! べ、別にそういうわけじゃ……」

 「そんな浮気男のテンプレ聞きたくないわ!」

 「な、渚⁉︎」

 「問答無用!」

 「ひっ⁉︎」

 慌てて釈明するも、渚の強烈な右ストレートが駿の頬に直撃する。なんとも短気な妹だ。

 「……っ⁉︎」

 駿はその勢いのまま、後方へ飛ばされていった。拳の威力が思いの外強く、後ろが見えるほど首を捻る。

 すると、愛華目掛けて空を飛んでいる(ぶっ飛ばされている)ことがわかった。どうにか手脚をバタつかせるが、その願いは叶わなかった。

 そして——ザッ、という何かを爪で切り裂く感覚と、ドン! という倒れる音が耳に届く。

 「……痛てて、大丈夫か愛——」

 駿は倒れた体を起こし、恐らく自分は最低な人間だと思い知らされる。

 茫然と眺めることしかできない。

 綺麗に開いた傷口を。

 その赤々と滴る液体を。

 なぜなら、

 「——血……」

 駿に巻き込まれたあげくの果て、左の頬に傷を負わせたのだ。

 三センチほどの小さな傷。

 できた場所によってその傷は、大きな傷。

 女の肌。

 ましてや、顔に。

 赤色の鮮血が流れ出し、締まりきっていない水道水のように頬を伝い、ポタポタと顎から制服に垂れる。

 おもむろに血が吹き出す頬に軽く触れた。

 瞬間。

 ——ドクン! ドクン!

 心臓の動きが尋常じゃないほどの早くなる。毛先一本一本まで鳥肌が立つ。汗がブワっと吹き出す。空気が薄く、肺を締め付けるような息苦しさ。頭に酸素が行き届かない。まるで口を押さえつけられているように。口を開き呼吸すると、途端に嘔吐感が押し寄せる。

 そして——蘇る

 ——あの日の光景

 ——あの日の絶望

 ——あの日の悲劇

 ——あの日の憎悪

 ——あの日の悲嘆

 

 一切の光が遮断された地下。

 手足の自由を鎖に拘束されて、宙吊り状態。口にはガムテープを貼られた一人の少女。

 少女は今にも泣き崩れてしまいそうな表情、気持ちでいっぱいだった。泣き喚きたい気持ちをぐっと堪えていた。

 理由は簡単。少女の前の男が元凶だ。

 がっしりとした腕。大根のように太い脚。がたいがいいスキンヘッドの男が、バットを片手に持っていたから。

 何も持っていないように見えるが、こちらをずっとニタニタとした笑いで凝視してくる短足の男がいるのだから。

 そして、ひょろっとした細身の高身長。一見一番弱そうに見えるがナイフを投げだり舐めたり、果ては、自分の腕を切り裂いている目元のクマが濃い男がいるから。

 それらが——少女を連れ去った張本人だから。

 男たちは気持ちの悪い顔で会話し始めた。

 「まだガキだが、上物じゃねぇか」

 「あれが宮原財閥の長女らしいです。これなら、しばらく愉しんだ後、臓器売買でも稼げそうです」

 「そんなんどうでもいい。あのガキを切らせろ」

 「おいおい大事な商品だぞ。俺だって殴りたいの我慢してんだから」

 「……本当は商品の価値が下がってしまうのですけど……こちらに怒りをぶつけられても困りますし……殺さない程度にお願いしますよ」

 「へいへい」

 「ああ? なんで俺がダメなんだよ!」

 「あなたがやったら骨が折れるでしょ!」

 「……ちっ」

 話がまとまったのか、ナイフを持った男が少女に近づいてくる。

 「ん⁉︎ んん、んーー! んん、んーー!」

 口が塞がっているため、話すことができない少女は首を豪快に振り、必死に抵抗する。

 すると、少女の前にヌっとナイフが突き出される。

 「——っ!」

 振っていた首を止め、息を詰まらせる。

 「ハッハッハッハッハッハッ。お前はどこを切り刻まれたい? あん? おっとすまない。 ガムテープで口を塞いでんだったな」

 ナイフを持った男は可笑しそうに笑った。

 少女の震える姿がそんなに可笑しいのか。残りの男たちも「あんまおもしれぇこと言うなよ」「あんま笑わせないでくださいよ」と高らかに笑った。

 少女が鋭い目つきで歯向かうも、笑いの種を増やすだけだった。

 しばらく笑った後、ナイフを持った男は、容赦なく少女の左の頬を切りつけた。

 流れる鮮やかな血を見て、自分が切られたことを自覚する。痛みはなかった。むしろ、自分の頬を傷つけられたことに、怒りが湧き上がってきた。

 「くるるぅぅぅーーー」

 威嚇するように少女が喉から声にならない声を搾り出す。男たちは愉快そうに笑うと、今度は身ぐるみを剥いだり、顔以外の至る箇所を殴る、蹴る。

 少女は怨嗟の咆哮を轟かせた。

 

 「——お姉……様、姉様……——お姉様!」

 「——姉さ、姉……ん……——姉さん!」

 自分を呼ぶ二人の天使の声。

 その声が愛華を現実に引き戻した。

 言うまでもなく——星良と彩芽だ。

 「——お姉様‼︎」

 「——姉さん‼︎」

 二人は安堵の息を吐くと、

 「……ひっ、ぐ……っ、あぁ……よかっ、た、本当によかった……」

 「うっ……ひっ、ぐ……あ、あぁぁぁん!」

 泣き出してしまった。

 荒ぶる激情に堪えきれず、意識をもってかれてしまった。

 自分を助けてくれた星良、彩芽に労いの言葉を掛けようとして、ふと——クラスメイトが視界に入る。

 「……ぐっ……うう、は、はぁ……はぁ、はぁ、はぁ……あああ、あああああああああ——————ッ」

 慟哭どうこくが愛華を支配する。

 悲鳴とも絶叫取れぬ声が満たしていく。

 星良、彩芽の愛華を呼ぶ声が遠のく。

 愛華の途方のない恐怖には二人の声は届かない。

 なにせ、クラスメイトが

 ——あの男たちの幻影と重なってしまったのだから。

 星良と彩芽は戦慄した表情を作り、保健室に連れて行こうと手を差し伸ばしたが——愛華はその手を振り払った。

 そして、生徒の合間を縫うように教室を出ていった。

 「——お姉様‼︎」

 「——姉さん‼︎」

 星良と彩芽の声はざわめく教室に掻き消され、二人は愛華を追いかけるため、駆け出した。

 

       ◇


 「……っ、うっ、う……っ、ひ……っ」

 嗚咽を漏らしながら、人気のない廊下をあてもなくひたすら走る愛華。

 今は授業中。当然、人の姿はない。

 — —それでも

 誰かに見られているんじゃないか

 面白がるように笑っているんじゃないか

 優越感に浸っているんじゃないか

 疑念と恐怖が込み上げてくる。

 (きっと今クラスでは、わたくしをさかなに盛り上がっているいるに違いありませんわ)

 そのくらいの傷で

 高校生になって

 泣き喚いて

 恥ずかしくないの?

 そんな風に思われてる。

 そんな幻聴と共鳴して涙腺が緩む。

 そして— —胸の中の黒い渦だけが残った。

 (ああ、何やってるんだろう、わたくしは……。星良さん、彩芽さんを傷つけ、あまつさえ、教室を飛び出すなんて……)

 頬を伝う冷たい涙が、温かい血液が混じり合う。そして、陽光に反射する血涙を残しながら。

 愛華は身を隠すように失踪した。

 

       ◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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