第30話:幼児

神歴808年・公国歴72年7月17日ベーメン公国リューネブルク侯爵家領都領城ヴィルヘイムの私室:アンネリーゼ視点


「どこに行くの、どこにも行かないで、お願い!」


 子供のような声をだして侯爵が甘えてきます。

 勇気を出して私に声をかけた侯爵は、一気に変わりました。

 良い意味でも悪い意味でも。


「トイレに行くだけです、少しだけ待っていてください」


「一緒について行っちゃ駄目?」


「駄目です、トイレだけは絶対に駄目です、大人しく待っていてください」


「怒った、ごめんなさい、謝るから嫌いにならないで!」


「怒っていませんし、嫌いにもなりません、少しだけ待っていてくだされば、必ず戻って来ますから、大人しくここで待っていてください」


 こう言っておかないと、黙ってトイレにまでついて来てしまいます。

 慕ってくださるのはうれしいですが、限度があります。


 私だけとはいえ、女性に接する事ができるようになったのは良かったです。

 ただ、言動が五歳児並みになってしまったのは悪い事です。


 見た目が初老の五十歳ですから、知らない人が見たら逃げ出してしまうほど不気味なのですが、家臣たちはこの姿によろこんでいるのだから不思議です。


「閣下、アンネリーゼ様に嫌われないように、私たちと一緒にここで待ちましょう。

 アンネリーゼ様には専属侍女と戦闘侍女が護衛についていますから、大丈夫です。

 それに、トイレは護衛騎士が守りを固めた部屋の更に内側にあります。

 彼らを皆殺しにしなければ、内側の部屋にすら入れません、安心されてください」


「……分かった、我慢して待っている、早く帰って来てね」


 失った家族との幼少時代を取り戻そうとしているのでしょうか?

 侯爵の生い立ちを知れば知るほど厳しく言えなくなってしまいます。


 このような異常な状態も、レベル4以上の状態異常快復魔術を使えるようになったら、治せるのでしょうか?


「おかえりなさい、寂しかった!」


 トイレから戻ると、侯爵がそう言いながら抱き着いてきます。

 五歳児が母親に甘えているように見えればいいのですが、見た目が五十歳ですから、何も知らない他人が見たら腰を抜かすかもしれません。


「ただいま、ちゃんと待てて偉いね、よし、よし」


 私もつい甘やかしてして、優しく抱きしめ、頭をなでてしまいます。

 侯爵は私の胸に頬を埋めて頬ずりをしていますが、変な意味はありません。

 純粋に母親のように甘えているだけです。


「アンネリーゼは良い匂いがする、この匂いを嗅ぐと安心できる、大好き!」


 侯爵が本当に五歳だったら純粋に可愛いと思えるのでしょうが……


「そう、安心できて良かったわ、そのまま寝ても良いのよ?」


「ほんとう、今日も一緒に寝てくれるの?!

 母上も乳母も一緒に寝てくれなかったんだ、僕と寝てくれるのはアンネリーゼだけだよ、ありがとう!」


「閣下を眠らせて差し上げるので準備してください」


「はい、直ぐに準備させていただきます」


 私の専属侍女と侯爵の専属侍女が微妙な表情をしています。

 初めて一緒に寝て欲しいと言われた時は、私も彼女たちも覚悟しました。

 貴族の愛は、正統な血筋を残す契約なのです。


 夫と妻の両家から正式な見届け人が来て、本当に両家の血を受け継いだ子なのか、後で問題が起こらないように見届けるのです。


 同じ女性が選ばれるとはいえ、秘め事を家臣に見られるのは辛いです。

 高位の貴族なら、それが当たり前の事として育てられるのでしょうが、没落男爵令嬢として生まれ育った私には、そういう常識も覚悟もないのです。


 ですが、大きな五歳児になってしまった侯爵にそんな意識はありませんでした。

 純粋に私に甘えたくて一緒に寝たいと言っただけでした。

 ホッとしたと同時に、まだまだ重圧が続くのだという思いも感じてしまいました。


 侯爵が女性に甘えられるようになったのは良い事です。

 このまま大人の女性を意識できるようになってくれたら最高です。

 ですが、このままだったら、ある意味以前よりも悪い状態です。


 やはり一日も早くレベル4以上の状態異常快復魔術を身につけないといけません!

 そう決意も新たに、侯爵を寝かしつけた私は自分の部屋に戻ろうとしたのですが。


「アンネリーゼ様、見つかりました、ダンジョンが見つかりました!」

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