別離
統合失調症を発症したアトゥームはラウルの処方した薬を飲んでみたが、感覚が鈍磨する様な副作用になじめずにいた。
ラウルは薬を飲ませるのも難しいだろうと思っていたが、幸いにもそれは杞憂だった。
「敵を認識するのが一瞬遅れるだけで命に係わる。もう少し弱く出来ないか?」
「義兄さん――一、二年戦いから離れた方が良いよ」ラウルは戦いからアトゥームを引き離したかった。
アトゥームは病識を持ってはいたが、完全なものとは言い難かった。
病気は一時的なもので、治ると信じていた。
そもそも死者蘇生にも匹敵する様な最高位の治癒魔法でもかけなければ統合失調症は完治しない。
そんな治療はおいそれと受けられるものでは無かった。
ほとんどの人にとって一生付き合っていかなければいけない病気だった。
アトゥームの症状は間違いなく急性期のそれだった。
時折涙を流しながら嗚咽し続ける。
ラウルは献身的に介護していたが、徒労感に襲われる事も少なくなかった。
アトゥームの感じている事が妄想や幻覚だと切って捨てるのは容易いが、それではアトゥームは意固地になるだけだろうと容易に想像がついた。
ラウルは悪魔憑きも疑って魔力感知の魔法を使ってみたが反応は無かった。
精神疾患の中にはそう言った超自然の存在が関わっているものもある。
悪魔憑きなら、それを祓えば済むがアトゥームの病気はそうでは無かった。
デスブリンガーの見せる幻覚に反応する以上、デスブリンガーをアトゥームから引き離すしか無いのだが、持ち主を選ぶ様な強力な
症状を緩和させる魔法なり薬なりを与えるしかない。
大学で学ぶ事も大切だが、症状が良くならないなら休学もやむを得ないだろう、ラウルはそう考え始めていた。
隔離施設に送るのは最悪の選択だろう。
病人を閉じ込めるだけの、鎖で壁に縛り付けるのが当たり前に行われる〝病院〟だ。
何故エレオナアルたちが病気にならず、義兄のような人が病気になるのか、不平等この上ない。
ラウルは神を恨んだ。
治癒魔法が進んだ中部に行って最高位の快癒の魔法を掛けてもらうことが出来れば――望みはそれしか無い。
「義兄さん。中部へ行くか、治癒術師を呼ぼう。快癒の魔法なら病気は治る」半ばは嘘だ、デスブリンガーから義兄を引き離さない限り、治っても再発は免れない。
帝都ゴルトブルクに高名な治癒術師――慈悲の神カドルトの神官だ――が来ていると話題になっていた。
しかし、アトゥームは首を縦に振らなかった。
「どうして、義兄さん」
「分かってる。これがある限り俺は病気から逃れられないんだろう」アトゥームはデスブリンガーの入った鞘を叩いた。
「伝説の龍の血でも飲まない限りは、な」
「でも――」
「俺の運命だ。俺に決めさせてくれ。死の王も俺がすぐに死んだら自らの望みを達せまい」
「危険だよ――義兄さんが嫌だと言っても僕は」
「止めてくれ」アトゥームは断固とした口調だった。
「自分の道を自分で決められないなら死んだほうがマシだ。薬を一生飲み続けなければならないのも」
ラウルも医療に携わるものとして義兄を狂気の世界に行かせることは出来なかった。
「副作用の少ない薬は作ってみせる。そうしたら飲んでくれるね」
アトゥームは頷いた。
義弟の事は信用している、人間としても、医療者としても。
ラウルは若干十五歳だが、天才だ。
「とにかく、お前の作った薬は飲む。暫くの間休養もとる。デスブリンガーは火山の火口に捨てても傷一つつかずに戻ってくるだろう――俺が死神の騎士から解任されない限り」
「神は余りに厳しい試練を与えるね。僕も奇跡が起こせたら良いんだけど」ラウルは嘆息した。
「お互い最善は尽くしてる。それで駄目なら諦めるしか――」
「僕は諦めない」ラウルはきっぱりと言い切った。
「諦めないよ。何があろうとも。必ず義兄さんを治してみせる」
ラウルは精神に働きかける魔法を研究するだけでなく占星術や神託をも駆使してアトゥームの治癒を試みていた。
時間はあっという間に過ぎていく。
大学が始まるまであと二週間という時に、事件は起きた。
* * *
その日は寒気がきつい事を除けば穏やかな天候だった。
二人は乗馬して村を巡る。
アトゥームはデスブリンガーを背中に吊るしていた。
デスブリンガーを身から離すと途轍もない不安に襲われる為だった。
ラウルは騾馬に乗って
村人たちは二人を受け入れたとも受け入れてないとも言えた。
ひそひそ話をしながら二人を見る者、あからさまに嫌な顔をしてドアを閉める者、人によって様々だった。
再興した村の隣に在る旧オラドゥール、アトゥームの家族を帝国軍が虐殺したその廃墟に訪れるのが二人の日課だった。
ラウルは祖父の贖罪を、アトゥームは亡くなった者を弔う為、どちらからともなく始めた事だったが止める事は一度もなかった。
黒焦げた木材の突き出す、虐殺当時の姿をそのままに残した、死の土地。
ラウルはアトゥームがデスブリンガーを抜き放つのを見た――何か視えている様にアトゥームは両手剣を振り回す。
幻覚に襲われている――ラウルは精神を鎮静化する魔法を唱えようとした。
この時、アトゥームは自らが殺してきた悪霊に襲われる幻覚を視ていた。
敵に囲まれ、ラウルを守らなくては――その思いで剣を振るうアトゥームは当のラウルを敵と間違えていた。
両手剣の一撃にラウルの魔術杖が弾き飛ばされた、返す刀でアトゥームはラウルに斬りつける。
スノウウィンドが棹立ちになった。
際どい所だった。
刃がラウルに当たる直前でバランスを失ってアトゥームは落馬した。
両手剣が雪道に落ちる。
同時にアトゥームも大地に叩き付けられた。
本能的に受け身を取ったが、衝撃に身体が痺れる。
「義兄さん!」事の成り行きに息を呑んでいたラウルは頭を振って騾馬から降りると、研究していた統合失調症を抑える魔法を唱えた。
アトゥームの血走った眼が穏やかになる。
「ラウル……」アトゥームは自分のしたことに愕然となった。
「もう大丈夫、大丈夫だよ、義兄さん」ラウルは義兄を抱き締めた。
「すまない――」アトゥームの目から涙が流れ落ちる。
「義兄さんのせいじゃない――僕にもっと力があれば」
スノウウィンドが二人の元にやってきて顔をなめる。
陽は中天を過ぎて傾いていた。
二人は塔へと帰る。
夕食を摂った後、眠りについていたラウルは自分を襲う不安に目を覚ました。
アトゥームの気配が無い。
慌てて寝間着に上着を羽織ってランタンに火を灯す。
アトゥームの部屋をノックした――返事は無かった。
「義兄さん!」部屋には誰も居なかった。
塔中を捜し回る、義兄は何処にもいない。
デスブリンガーも、スノウウィンドもいなかった。
食堂の机の上に昔渡したペンダントが置いて有った。
義兄は責任を感じて自分の前から姿を消した――そう知ったラウルは愕然とした。
寝ずの番をするべきだった――義兄の性格を考えればあり得る事だった――後悔が襲ってくる。
慌てて外出着に着替えて外に出ようとした。
その時、ラウルの脳内に声が響いた――ラウルは自分も統合失調症に罹患したのかと自分の精神状態を疑った。
声は女性のそれだった。
〝我が忠実なしもべラウル、お待ちなさい〟
「貴女は僕の生んだ幻だ――」
〝私は女神ラエレナ。貴方の義兄を助けたいならまずは彼を行くにまかせなさい――死の王も神も彼を見捨てません〟
「幻でないならそれを明かして下さい。女神を名乗る方よ」ラウルは返事を待たずに
〝貴方の机の引き出しに義兄の書いた書置きがあります。すぐに見つからない様そこに置いたのです〟
ラウルは自室の引き出しを開ける。
確かに畳んだ紙片が入っていた。
アトゥームからの手紙には遥か西方、安息の地イェスファリアにある永遠の都タネローンを目指すと書いてあった。
訪れた者に安寧をもたらすと言われる聖地だ。
〝実際には彼がタネローンに行くのは数年後の事になるでしょう。精神の病を治癒する魔法を完成させねばなりません。貴方の魔法で多くの人々を救うのです〟
「兄も救えないのに人々を救えと?」
〝戦争が起こります〟ラエレナの声には切迫した調子が有った。
〝戦皇エレオナアルが休戦協定を破って帝国に進軍します。貴方が義兄を追うのは構いませんが出会える可能性は低いでしょう〟
「戦争が?」ラウルは思わず聞き返した。
「今戦争を起こしても皇国には何の得もない。それなのに?」
〝エレオナアルの頭ではそれを理解する事は出来ません。腰巾着のショウにもです。エレオナアルは五十年昔の狂王トレボーの西方世界席巻を超えることが出来ると思い込んでいます〟
「前の戦争では帝国が皇国に攻め込みました。狂王の戦はそれより古い、帝国も皇国もまとめてトレボーの前に膝を屈した、それを超えるなんて不可能だ」
〝貴方とエレオナアルは違うのです〟
「戦争を防ぐ為に僕に出来る事は無いのですか? 女神ラエレナ」
〝殆ど何も無いでしょう。帝国に注意を喚起するのが関の山です〟
「義兄さんも救えず、戦争も防げず、一体神は僕に何を望んでおられるのか」
〝その答えは貴方自身が見つけねばなりません。自分の欲する事を為しなさい。そうすれば少なくとも後悔せずに済みます〟
ラウルは外套を脱いだ。
焦って外に出てもアトゥームの足取りは追えないだろう。
息を一つつくと窓から外を見る――幸い吹雪いてはいない。
「義兄を救う事は出来ますか? 僕でなくとも誰かが、神でも悪魔でも構わない」
〝あらゆる魂は救われます〟
「答えになっていませんよ」ラウルは苦笑する。
「僕は準備を整えたら義兄さんを追います、少しでも可能性が有るならそれに賭けたい。助けて頂けますね」
〝良いでしょう〟
それきり女神の声は止んだ。
――翌日ラウルは大学へ
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