統合失調症(シゾフレニア)の傭兵
アトゥームの出生地、帝国と皇国の境界線に位置するオラドゥール村はどちらの国のものとも言えない空白地帯になっていた。
育ての親ガルディンの建てた塔はそのまま残っていた。
アトゥームとラウルはしばらくの間そこに留まるつもりだった。
年に一度、この塔で会う約束を交わしていた二人は普段の年より早くそこに入ったのだった。
日が暮れかけていた。
「今年は会えないかも知れないと言ってたが、予想は当たらないものだな」アトゥームはしみじみと言った。
「良い方向に外れたならそれは喜ぶべき事だよ」ラウルは壁のランプに火を灯す。
「二、三ヶ月はここに留まって大丈夫だと思う。それからの事はゆっくり決めよう。まずは暖炉と食事だな」アトゥームはランプから火を取ると暖炉の薪にくべた。
少し経つと暖気が辺りを覆う。
「食事は二人で作ろうか」ラウルは戸棚からエプロンを二つ取り出すとアトゥームに渡した。
簡素だが暖かい食事を摂りながら二人は今後の事を話し合う。
「これについて、何かわかった事が有るって言ってたな」アトゥームは壁に立てかけた両手剣を指して言った。
「デスブリンガーは死の王ウールムの造ったKnight Of DEATHの装備の一つだよ。この剣で絶命した者はいかなる魔法でも蘇生できない。黒い全身鎧が対になるけど、何処にあるかは誰も知らない」ラウルは干し肉を出し汁で戻したシチューを頬張る。
「リルガミンのKnight Of Diamondsと関係あるのか」
「最古の帝国リルガミンのKod’sは大地母神グニルダの神器、どちらが先かは分からないけれど触発されて造られたんだと思う」
「剣が俺を選んだって言ってたな」
「そうだよ。神器はいずれも持ち主を自分の意志で選ぶ。最後にデスブリンガーに選ばれたのは二百年も前の
アトゥームは顔をしかめる。
「ああ。死者を記憶するのは生き残った者の責務かも知れない」
「あまり何もかも背負い込まない方が良いよ。副作用だとしてもそれを軽減しないと義兄さんの精神が持たない」
「そうだな」アトゥームは固いパンでシチューの入った皿を拭き取る。
ラウルは義兄がそうできない性格なのを知っていた。
遅かれ早かれ、義兄が精神の均衡を失う事も。
その時に備えて精神疾患についても勉強していた。
防ぐのも大事だが、かかった際に悪化させない様にする事も大事だ。
かかったが最後、破滅しかない――専門家にはそう言う者も少なくなかったが、実際の患者と接したラウルは治癒まで行かなくとも寛解は不可能では無いと思っていた。
「スノウウィンドを見てくる。今夜は早めに寝よう」アトゥームは食器を片付けると
スノウウィンド――〝雪風〟の名を魔界の戦馬に付けたのはラウルだった。
台所の焜炉に鍋を置いて湯を沸かす、暖かい湯で食器を洗う為だ。
木でできた桶に湯を注ぎ、水を差して適温にする。
〝智恵の女神ラエレナよ、どうか死の王が義兄さんを破滅させない様お助けを――〟自ら奉ずる女神に助けを求めた。
大学で教わった全ての神の上に立つ唯一無二の全知全能神――ラウルはその教えにも惹かれつつあった――にも祈りを捧げる。
一方アトゥームは外の吹雪が酷くなってきた中、厩に繋いだ愛馬が平気な様子でいるのを見た。
ラウルが乗ってきた騾馬は大人しくしている。
飼葉桶に角砂糖を入れる。
スノウウィンドも騾馬もそれをゆっくり食べた。
スノウウィンドは雑食だ、肉も食べさせないと病気になるとラウルに言われた。
厩に沢山の藁がひいてある、昼の内に村で集めたものだった。
昔自分を助けてくれた老婆は今年秋に病気で亡くなっていた。
人殺し稼業だから立派になったとは言えないが、成長を祝ってくれたはずの人が亡くなった事は無念だった。
ランタンで照らされた隅に動く影がいた――アトゥームは
しかしはっきりとその影の正体を掴む前にそれは消えた。
戦皇エレオナアルが追手をかけた可能性も有る。
スノウウィンドを助けた村は壊滅させられた――予想外にエレオナアルたちは有能だった。
息をついたその時、アトゥームを
始めて殺した兵隊、面倒見の良かった傭兵団副長カッツ、初恋の女性エルフィリス――デスブリンガーに殺された訳では無いのに何故か心に浮かぶ――今までデスブリンガーの餌食となった全ての生き物の記憶が一瞬にしてアトゥームの脳内を走る。
「ぐッ――」くずおれ膝立ちになった。
普段は一分も経たずに治まる想起だが、今はまるで治まる様子が無かった。
頭を抱える――痛みすら感じる。
あんたたちが死んだのは――俺のせいだ、俺の―—
吹雪の中アトゥームは膝立ちのまま立ち尽くす。
寒気が身をこそげ落とすような感覚に気持ちよささえ感じた。
息をする度に頭が明晰になって、どんな些細な事も見逃さない。
吐く息の白さに陶然とした。
涙が流れ落ちる。
俺は、他の誰が忘れようと、俺だけは、あんたたちの事は忘れない――
自分の責任だという思いと、流れ込んでくる記憶、自分は死者を弔う選ばれた者だ、そんな思いが身体中を駆け巡る。
神経にやすりを掛けられたような敏活さが満ち満ちた。
空に浮かぶ星明りと遠くに見える村の光がやけに美しく見えた。
エルフィリスの姿が宙に見えた。
「俺はまだ君の元へ行けないのか――行ってはいけないのか?」嗚咽が零れる。
エルフィリスは哀し気に微笑むだけだった。
アトゥームはふらふらと立ち上がる。
自分に引き戻してくれたのはスノウウィンドだった。
主人の異常を察したのか声高くいななく。
アトゥームは涙に濡れた目で愛馬を見つめた。
愛馬の目に映る自分の姿に、アトゥームはようやく正気を取り戻した。
目尻に涙を凍らせた雪塗れの姿に流石に我に返った。
「義兄さん? 大丈夫? 」馬のいななきに気付いたラウルが表に出て来る。
「大丈夫だ――」
「中に入ろう。この寒さは良くないよ」ラウルは恐れていた事が現実になった事を悟った。
こんなに早くに義兄が
ラウルの覚えている魔法では治療できない――最高位の快癒の魔法でも掛けない限りは治らないのだ。
――事実、これからの数年間が二人にとって最も困難な試練の時になったのだ――
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