第35話 風

「んふふ、今日のお昼ごはんは何かな~?」

「え、エマは相変わらず食いしん坊です」

「いやいや、僕は食いしん坊じゃないよ!!お母さんの料理が美味しすぎるだけだよっ!!」

「こ、この前、私のお母さんの料理もたくさん食べてました」

「そ、それは、クロエのお母さんの料理も美味しいからだよっ!!」

「……そ、そういうことにしておきます」

「絶対僕が言ったこと信じてないじゃん!」


 僕の弁明は全く響いておらず、食いしん坊の烙印を押されたことは想像に難くない。女の子として食いしん坊という称号だけは獲得したくない僕は、身振り手振りで弁明しようとするも、軽く舗装されただけの凹凸激しい山道に躓いてしまう。

 

「うわっ」

「エマ、大丈夫ですか?」

「う、うん。ありがとう」


 しかし、クロエと手を繋いでいたことにより僕の体は支えられ、幸いにも被害は体勢がよろけることだけに留まった。

 気を取り直して、食いしん坊の称号についてまだまだ議論を重ねようとしたところ、突如耳に入ってきた音によってそれは遮られた。


 ―――『聞くに堪えないほど悍ましいあまりに清らかで美しい』鐘の音だ。


 数十秒に一回、規則的なリズムでその音は鳴り響いていた。おそらく、音の方向からして街あたりが発生源であることが予想できた。


「正午の鐘の音……じゃないよね?こんなに何回も鳴らさないし」

「音もいつもと違うような気がしますし、街の鐘塔にある鐘じゃないと思います……。いったい何があったんですかね」

「とりあえず街に帰ってみようっ!お腹も減ったしっ!!」

「やっぱり食いしん坊です」

「だから僕は食いしん坊じゃないってば!」




「え……何これ……」


 街を囲う石壁。その出入り口である大門を通り抜けると、そこには異様な光景が広がっていた。


「死ね!死ね!死ね!」

「あははっ!殺して!!私を殺して!!私もあなたを殺すから!!!」

「皆さん、ナイフはこうやって刺してください!!全体重がかかるように!!」

「お父さんの内臓こんなに飛び出しちゃってる……。もう、掃除しなきゃいけないじゃん……」


 狂っていた。街中は血で溢れ、どこに視線を向けても死体が転がっている。幼子が親を殺し、体から飛び出た内臓を掃除している。神父が人間の殺し方を実演し、それを参考に住民達が殺し合っている。最近結婚した夫婦がナイフを刺し合っている。そして、今もなお死体が増え続ける。


 狂っていたのだ。街全体が、狂っていた。


 あまりの光景に、僕とクロエは嘔吐した。


「う……うぅ……」

「な……なんで……こ、こんなの、おかしいです……」


 理解したくない。目の前の光景を、何が起きているのかを、何が行われているのかを、理解したくない。一ミリたりとも考えたくない。でも、僕の脳は認識してしまった。目の前で起きている惨状を。


 絶望的な現実。激しく揺れ動く情緒。街の住民達の発狂。絶えず鳴り響く鐘の音。僕の心がちょっとずつ、ちょっとずつ崩壊していく。


 苦しい。


「はぁ……はぁ……」


 苦しい。苦しい。苦しい。


「はぁ……はぁ……はぁ……」


 苦しい。苦しい。苦しい楽しい。苦しい。苦しい。苦しい楽しい。苦しい。苦しい楽しい苦しい楽しい。苦しい。苦しい楽しい苦しい楽しい苦しい楽しい


「エマっ!エマっ!!」

「っ!!クロエ……?」


 朦朧としていた僕の意識は、クロエの声によって覚醒する。クロエは蹲る私の手を引っ張り立ち上がらせた。


「に、逃げましょうっ!!今すぐ!今すぐにです!!」

「で、でも、お父さんとお母さんがっ!!」

「だめです!!これ以上この街に居たら、きっとおかしくなる!!さっさと逃げましょう!!」


 動揺して碌に動けない僕はクロエに引っ張られることで、なんとか街の外に向かって走り始めた。幸い、街に入ってすぐ異変に気が付いたため、外はすぐそこだ。まずは逃げよう。

 そして今にも外へ出るという瞬間、聞き慣れた声が聞こえた。


「エマ!無事だったか!!!」

「っ!!お父さん!?」


 背後から聞こえたその声に対して、僕は反射的にクロエの手を振りほどいた。そして立ち止まり、後ろを振り向く。そこには―――。


「お…とう、さん……」

「よかった!!大丈夫そうだな!!このまま皆で街を出るぞ!!」

「イ、イヤ……近寄らないで……」

「何を言ってるんだ!!今この街は危険だ!一緒に逃げるぞ!!」

「やめてやめてやめてやめてっ!!!それ以上喋らないでっ!!」


 現実に耐えられなくなった私は殻にこもるようにその場に蹲り、目を閉じ耳を塞ぐ。


「そんなところに蹲ってどうしたんだ!!ほら、一緒に逃げよう。家族皆で!母さんと父さんと一緒に逃げるんだ!!」

「それを母さんなんて呼ばないでよっ!!!おかしい…皆おかしいよっ!!」


 お父さんの全身にはおびただしい量の血が付着していた。信じたくない。信じたくないけど……きっとお父さんは、この街の皆と同じように、誰かを殺したんだ……。

 その証拠には、お父さんの右手には誰かの内臓が握られていた。そしておそらくその内臓は―――。


「ほら、立って!エマ!!」

「近づくな近づくな近づくな!!僕に近づかないで!!!あなたは僕のお父さんじゃない!!!」


 いや、お父さんだ。


「おいおい!反抗期を迎えている場合じゃないぞ!!今すぐここから逃げ出さないと、皆と同じように狂ってしまう!!」

「もうやめてよっ!お父さんも狂ってるんだよ!!ソレがお母さんなわけないもん!!」


 いや、お母さんだ。


「エマ!母さんになんてことを言うんだ!!謝りなさい!!母さんが悲しんでるぞ!!なぁ!お母さん!!」

「やめてやめてやめてやめてやめてやめてっ!!

「母さん?なんで父さんを無視するんだ?……まさか、昨日勝手に酒を飲んだことをまだ怒っているのか?すまない、もうやらないから許してくれ!!愛する妻よ!!」

「もう……もうやめてよぉ…………」


 もう嫌だ……。こんな世界、耐えられない。苦しすぎるよ……。それなら、いっそのこと―――。


「―――まったく、人間は酷いことをするのね。こんなものを見させるなんて」


 風が吹いた。恐怖、嫌悪、絶望、苦しみ、不安、困惑、そのすべてを吹き飛ばす、暖かい風が。

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