runaway,baby

それからしばらくの間は地獄のような日々だった。来る日も来る日も勉強勉強。文字の読み書き、算術、歴史、社交と礼儀作法。大人にさしかかった俺が自分の名前くらいしか満足に書けないのを知った家庭教師が目を丸くするのを見て、俺は怒りをこらえきれず高そうな椅子を蹴り飛ばして一脚無駄にしてやった。


…誰のせいだと思ってやがる。


この国はもともと貧しい国だったが、現国王になってからは更に貧富の差が広がったらしい。王族、貴族どもは毎日毎日屋敷で贅沢三昧。平民どものほとんどは食うや食わず、毎日路上の死体が増えていく。勉強などする余裕があるわけがない。


その格差はイルゼに王城に召し抱えられてから痛感した。人が十人は寝れるようなバカでかいベッドは何が詰まっているのかわからないほどフカフカで、何に使うのかわからないテーブルやら椅子やらがごまんと置いてある。腹の足しにもならない絵画は、俺が一生食っていけるほどの額だという。

加えて、朝から晩まで食いきれないほど出される飯はどれも見るからに豪勢だ。それでも使用人用の食事であり、国王一族はそれとは比べ物にならないほどの良い食事をとっているのだという。


ふざけてる。


俺は数日で怒りがこらえきれなくなり、大暴れしてイルゼを俺のところに寄越させた。

イルゼは部屋につくと執事とメイドに部屋から出るように告げる。彼らはそれを必死で止めようとしたのだが、イルゼが冷たい瞳で黙って見つめるとしっぽを丸めて出て行った。

「あんた、何をしてるの」

「あ?暴れてんだよ」

「それは見ればわかるわ。何のために」

「ムカつくから」

「…あんた、あたしよりずっと年上のくせに、何をガキみたいなことを言ってるの」

「…っ!」

俺はこらえきれずにイルゼの細い首を思い切り掴みあげてやった。イルゼは不快そうに目を細めるがそれだけだ。逃げようともせず、叫ぼうともしない。

「でて…いきたいなら、出ていきなさい」

イルゼのかすれた声と、彼女の赤くなっていく顔に彼女を投げ捨てた。流石に王城で王女を殺すのはまずい。イルゼはその場で数回咳をし、もう一度俺を見上げて言った。

「出ていきたいなら出ていきなさい。あたしは止めないわ。出て行かないならばあたしの言う通りにしなさい。まずはあたしの従者として恥ずかしくないように勉強して」

「俺の仕事は人殺しじゃなかったのかよ」

「ああ、それは…もう少し後になってからよ」

の時間軸が俺とイルゼでは違っていたらしい。結局、その後も二年間俺はずっと勉強に追われていた。いつでも逃げられるという安心感と、このあと何が起こるのかという不穏な期待が俺をここに留めていた。


◇◇◇


その日はイルゼが十二歳、俺が二十歳になった年にやってきた。

「サジ。あたし今日、ある人とねやを共にするの。あんたその間、そこの衣装棚に入ってなさい」

「…あ?」

「あたしがあんたのことをセルジュって呼んだら、その場にいる私以外の全員を殺して」

「…ああ?おい、いつもにも増して言ってる意味がわかんねえ」

「あんたは相変わらずバカね」

「お前が、…なんだって?」

「とある貴族と寝るのよ」

あっけらかんと言うイルゼを信じられない気持ちで見つめた。

「お前…まだ子供だろ」

「体は小さいけれど。穴があるなら棒は入るわ」

「…おま…」

絶句した。穴だの棒だの、本気で言ってんのか。決してコイツに対して愛や恋といった感情は無かったが、俺のちんけな想像力で想像できる範囲をさらに超えた生活をさせてくれたコイツには、一種の、ほのかな恩のようなものを感じてはいた。そいつが、まだ子供のコイツが男と寝るって?

変なやつだとは思っていた。コイツは必要があるときしか笑わない。それも見るからに顔に張り付けたような笑顔しか見せないのだ。だから心に病でも抱えているのかと思っていたが、とうとうトチ狂ったのか。

「終われば分かるわ、色々と。あんたはセルジュと呼ばれたら私以外の人間を殺せばいいの。それだけ」

「いやお前…できんのかよ…その…」

「やり方は勉強したし必要なものは揃えたわ」

「必要なものって…」

「…腹の奥に詰める薬とか、痛みを和らげる麻酔のような効果がある薬とか。…もういい?長々話したくないの」

「…なんでセルジュなんだ」

「あんたは本当に馬鹿ね。名で呼ばれるたびに人を殺すクセがついたら困るでしょう」


その日の夜、俺は言われた通りクローゼットの中でじっとその時を待っていた。妙な緊張感としか言えない感情が俺を包んでいた。イルゼに欲情するとは思えなかったが、主のしどけない姿を見せつけられるのもなんだか居心地が悪い。

そんな俺のもやもやを知るはずもないイルゼともう一人、アイゼン卿はソファーでくだらない歓談をしている。こっそりとアイゼン卿の姿を見た俺はさらに絶句してしまった。身なりこそ綺麗にしているし細身で知的ではあるが、どうみても俺よりもさらに年上のおっさんだ。

何考えてんだあいつ…頭を抱えてため息をつきたくなる。何が目的か知らねえが、相手なんて選び放題だろうに。

「ねえ、今日はアイゼン卿にどうしても教えていただきたいことがございますの」

衣擦れの音に続き、ソファーが軋む音がする。イルゼがアイゼン卿の隣に座りなおしたのだとわかった。イルゼの声音が変わったことにドキリとする。

「な、なにかなイルゼ王女」

「私、アイゼン卿とお話ししていると体の奥の方が熱を持って、たまらなくなってしまいますの」

「は、はあ…」

「どうしたらこの熱がよくなるか、博識なアイゼン卿でしたらご存じなくって?」

「いやまあ、どうしたものですかな…」

「ちょうど、このあたりなんですのよ。うずうずと、体をよじりたくなるようなうずきがあるのです」

耳に聞こえているその声は確かにイルゼの物なのだが、いっそ冷酷とも言える普段の話し方からは全く想像できない、女の声だった。誰か別の人間が喋っているのではないかと思いそっとクローゼットを開けると、確かにそこにはイルゼが、上気した顔で自分の下腹に男の手を添えてねだるような顔で男を見上げていた。

俺は音を立てないよう細心の注意を払って扉を閉めると、口を押えて熱い息を吐きだした。情けなくも心臓の鼓動が早い。―なんなんだ、コイツ。

「そ、そうですなあ…方法はまあ、あるのですが…」

「…教えてくださる?」

「ただまあ、儂でよいものか…」

「アイゼン卿に、教えていただきたいのです」

ごくり、と大きく唾をのむ音が部屋に響いた。


ベッドでのイルゼの嬌態には更に目を見張ってしまった。俺は息を殺してクローゼットの中で身を固くするしか出来なかったが、その暗闇の中で淫靡な音とイルゼの声が俺の想像を掻き立てるように、ぐわんぐわんと響く。

「…あ、は、アイゼン卿…、恥ずかしい…」

「恥ずかしがっているイルゼ様がたまらないのです…ほら、ここをこのように固くして…」

「あんっ、ああ、そ、そんな舐めかた、…ああ、いやらしいわ…」

「イルゼ様の体は美味しゅうございますなあ…こちらはいかがでしょうか」

「あっ、いけませんアイゼン卿、そんな不浄なところ…っ」

「不浄なものですか…ああなんと可愛らしい、ピッタリと口を閉じて…誘っているようだ」

俺はその言葉が示すものにカッとなり思わず剣に伸びそうになる自分の腕を強く噛んで堪えた。この感情はなんだ。愛情ではない。美しいものが汚されようとしていることへの怒りか、それとも子供相手に汚い欲望をむき出しにするジジイへの嫌悪か。

その間もぴちゃぴちゃとした水音とイルゼの嬌声が部屋に響く。イルゼは戸惑い、喜び、媚び、あらゆる方向からアイゼン卿と─俺の情欲をかきたてる。

「さあ、イルゼ様…!」

「っ、は、ああああ!」

イルゼがひときわ高い喘ぎ声をあげると、ベッドの軋む音がさらに激しくなる。それにつれて俺の中のどす黒い殺意も膨れ上がっていく。

「あッ、…ん、あぁッ…アイゼン卿…!」

「い、イルゼ様…!イルゼ様素晴らしゅうございます…!」

「そういえば、市政には交わりがもっと…あんっ、素晴らしくなる薬があると聞きましたわ」

「はっ…はっ…ええ、ございますとも」

「アイゼン卿も使ったことがあって?」

「ええ、もちろんです…さあ、ここはどうですか?」

「ああんそんなに、虐めるようになさらないで…どこに行けば手に入るのかしら…私も…もっ…とアイゼン卿と喜びを感じたいわ」

「それならば今度お持ちしましょう…なにせ、儂が仕入れているものです…!!ううっ」

「まあ、素敵…!あっ、そんなに強くされては…っ」

「それは儂からか、ウィンストン協会でしか手に入らないのです…!しかし、イルゼ様のこのお体にあの薬が混じれば、精も根も尽き果てるまで…お、お…搾り取られてしまいますなあ…」

「セルジュ」

どす黒い感情を押さえることに必死だった俺は唐突なその声が何を意味しているのか、咄嗟に掴みかねた。

「…セルジュ!」

慌ててクローゼットを飛び出すと、想像通りにイルゼを組み敷いてあっけにとられているアイゼン卿がこちらを見つめている。

飛ぶようにそちらに駆けると、一振りでその首を横に薙いだ。その瞬間、あっやべ血が。と自分の失策に気づいた。アイゼン卿は一言すらも発することができずその場に仰向けに倒れていく、その喉から溢れた血がイルゼとベッドに盛大に飛沫しぶきかかった。

「…悪い」

イルゼは先程の嬌態とは別人のようにいつもの冷酷な様子で俺を見上げている。イルゼの真っ白な雪のような肢体に鮮血のコントラストが眩しい。

「それをどかして」

俺はどこか麻痺した頭で言われるがままにアイゼン卿の体をベッドから引きずりおろした。

「こっちへ来なさい」

呼ばれ、ベッドに片膝をついてイルゼに近づく。

「もっと」

もっと、と言われるがままに近づけば、ほとんどイルゼに覆い被さるような形になった。…これは、とドキリとした俺の頬を、イルゼの手のひらが思いっきりはたいた。

目の奥に閃光が走る。

「…ってえ…!」

「あんたは今日二つの失敗を犯したわ。言ってみなさい」

頬を抑えて飛びずさる俺に構わずイルゼは試すように告げる。

「…名を呼ばれてすぐに反応できなかったのと、殺し方…」

「何が悪いかくらいは考えられる頭を持ってるようで安心したわ。二度目は許さない」

「…ああ…」

「ここの片付けは私の側仕えのハレイとやって。それが終わり次第行きなさい」

「…あ?行くって…」

「…お前は本当に馬鹿なのかしら。あたしたちの話を聞いてなかったの?ウィンストン協会で違法薬物が売られてる。潰しなさい。犬」

わずか十二歳で好きでもないジジイとの破瓜を終えた主は、堂々たる姿で俺を犬と見上げた。

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