フェァトレード

T-time

勉強と弁当

 授業の終わりを告げるチャイムの音と共に、教室がざわつき始める。

 そのまま帰宅する者、これから部活に行く者、帰りにどこに寄るかと相談する者……

 そんな中、僕は窓から外を眺めていた。


 晩秋ばんしゅうの風が吹く窓ガラスの向こうは、僕の心と同じように寒々しい色をしていたから。


 つい先日までは、この時間が大好きだったからこそ、胸の中にぽっかりと穴が空いてしまったような気分になる。


 今にも教室の引戸ひきどを開けて、あの子が入ってきて。

「洋平君、一緒に帰ろっ」

 そうやって楽しげに声をかけてくるのではないかと錯覚してしまう────。



 思い返せば、今年の夏休みは地獄だった。

 授業がないのを良いことに、親に強制的に塾に通わされ、一日中勉強漬けになっていた。

 そのせいで、せっかく出来た彼女ともほとんど会うことが出来ないでいた。


 逆に彼女は時間をもて余してしまい。

 友人達とカラオケだ、ショッピングだと青春を謳歌おうかした挙げ句、新しい彼氏が出来てしまったらしい。


「なんか洋平って頭は良いけど、退屈なのよね」

 興味を失った女の子特有の、抑揚のない響きで紡がれた別れ話に、僕は反論も出来ずに引き下がった。


 実際にそれを知らされ、別れを切り出されたのが、一ヶ月もすぎたついこの間というのだから、僕の心的ダメージも推して測れるのではないかと思う。


 校門を過ぎる帰宅部の群れが落ち着いてきた頃になると、この教室に残るのは自分一人になっていた。

 俺はため息をひとつ落としながら、ようやく重い腰を上げた。


 当然ではあるが、教室の扉は開かず、何事もなかったかのように彼女が声をかけてくれることも……


 ガラガラ! バーン!


 アンニュイに浸っていた僕の耳に、バカみたいな勢いで開け放たれた引戸の音が飛び込んできた。


「あっ、新谷しんたに洋平ようへい! お前でいいや、ちょっと頼まれてくんねぇ?」


 そして名指しで……というかこの教室には僕しかいないのだから、人違いということはないんだろうけど。

 会話もしたことのない女の子に頼りにされるシチュエーションが思い付かなかったからだ。


 何故なら扉の外にいた女性は、髪がプリンのようになった茶髪の女の子。

 スカートは短ければ短いほどいい。

 爪は長ければ長いほどいい。

 そんな価値観が僕には全く理解できない「ギャル」という生き物だったからだ。


「僕?」

「は? 新谷以外に誰が居るんだよ」

「まぁ……そうなんだけど」


 ギャルはづかづかと教室に入り込むと、僕の前の席をひっくり返し、こっちに向けて座った。


「新谷さ、数学のノート取ってるだろ? それを写させてくれよ」


 ああ、そういう事ね。

 僕はようやく合点がいった。


「いいよ、どうせ暇だし」

「サンキュー助かるわ、先生に今日までに提出って言われてたのに、ウチ寝ちゃってたからさ」


 僕が鞄をゴソゴソと漁って取り出したノートを、引ったくるように奪い取ると、自分のノートの上に重ねるように置く。

 そして、一心不乱にそれを書き写してゆく。


 特にやる事のない僕は、頬杖をついてそれを眺めていた。


「あ、柴崎しばざきさん。そこ間違ってるよ」

「どこよ」

「ほら、三行目のとこ、34じゃなくて43」

「ホントだサンキュ」


 それはともかく、だいぶ前からノート取ってないじゃないか。

 昨日今日の話じゃないよこれは。


「昨日は寝てなかったけど、ノート取らなかったの?」

「数学苦手でさぁ、ぶっちゃけ何言ってんのかわかんないわけよ」

「黒板を書き写すだけでいいのに」


 会話の途中でチラッと顔を上げて、僕の方を見ると、ふぅと短いため息を吐く。


「連立方程式とか、どこまでが最初の式で、次の式がどれかとか分かんなさすぎだし、最近aとかbとかxとかばっかり出てきて、英語の授業なんかなって思うくらいでさ」


「ぷっ」

 確かに数学をやってるはずなのに、最近ではどんどん英語ばっかり見ている気がして吹き出してしまった。

 普段勉強に興味がない人から見ると、また違った視点で面白いと思う。


「お、笑ったな新谷ぃ。……最近暗い顔ばっかしてるもんな」


 その台詞に、自分の状況を思い出して、また少しテンションが下がってしまう。


な、ウチも関係しててさ。悪いって思ってて……」

 まさか殆ど接点がなく話す事もなかったギャルから、そんな言葉が出てくるとは思っておらず、目を白黒させている間に、彼女は手を止めて少しずつ話し出した。


「美保がさ、夏休み彼氏と会えないって落ち込んでたからさ、元気付けようって思って遊びに誘ったわけよ……そしたらさ、そのメンバーの子と仲良くなって、付き合うなんて言い始めてさ。ホント、新谷には悪い事したって思ってるんだよね」


 今の話の中で、目の前のギャルが謝る場所があっただろうか?

「美保の相談に乗って、元気付けて上げようとしてくれていただけなんでしょ? 柴崎さんが悪いわけじゃないよ」


 僕は努めて明るくそう返した。

 いつも元気で、人生が楽しくてしょうがないみたいな顔をしているギャルが、眉尻を下げて悲しそうにしている姿が、何となく嫌だったからだ。


「そんなことより、書いちゃわないと帰れないよ」


 許しても、表情を変えずにこっちを見てくるギャルを、彼女なりの現実に引き戻す。

 彼女も切羽詰まっている筈なんだ。


 実際、少し慌てたようにシャープペンを持ち直すと、必死に写経を再開する。



 ただ、何となく重い空気が流れている感じだったので、別の話題を振って置くことにした。


「でもさ……柴崎さんよく授業中寝てるけど、夜とかやっぱ遊びに行ってる感じなの?」

 一部の生徒がそんなことをして補導されたとかいう話を耳にしたことがある。

 やはり夜に似合うのは、僕のような眼鏡に黒髪の貧弱ボーイではなく、彼女のような華やかなギャルだろう。


 しかし、返答は意外なものだった。


「ウチ母ちゃん居ないからさ、弟達食わすのにバイトしてんだ」

「えっ?」


「夜やってる知り合いの店の厨房で、皿洗いとか、料理もたまにはやるんだぜ?」

 そうやって、その行動が苦であるかのようには見えない笑顔で、自慢げに話してくる。


「そんな、バイトは禁止されてるんじゃ……」

「知り合いのところにお手伝いに行ってるだけだかんね、しかもウチの財布に入るお金じゃないからいいんだよ。でもみんなには内緒にしてくれよ」


 ギャルはその指を口許に持っていって、内緒のジェスチャーをした。

 とはいえ、夜に起きていると、昼に勉強に身が入らないのは当たり前の事。

 そりゃ眠たいわけだよ。


「あ、そこ、間違ってるよ。4行目」

「ホントだ、くそっ、一個くらい間違っててもいいじゃねぇか」

「いや、それやっちゃうと答え全然別になっちゃうから」


 僕は、自分の筆箱からペンを取り出すと、その数式の横に数字を書き加えた。


「ここはbにイコールの向こう側の式を入れるんだ」

 代入する場所を分かりやすく指定。


「同じ文字が、こっちとこっちにあるでしょ、だったらこれ消しちゃっていい」

「まるでパズルゲームみたいだな」


 ギャルが苦笑しながらも、次々と消えてゆく数字の説明を真剣に聞いている。


 一通り説明し終わると、ギャルは目を輝かせて少しテンション高く話し始めた。


「新谷の説明、凄い分かりやすかった! 先生ってのは勉強をわざと難しく教えてるわけ?」


「いや、そういうわけじゃないんだけど」

「明日から新谷に、先生の変わりに授業してほしいくらいだぜ」


「ないない、でもちょっと興味持ってくれて良かった。──僕もさ、数学はゲームみたいで楽しいなって思ってるんだ」


 感覚を共有したことで、ギャルが僕と同じ人間である事をはっきりと感じることが出来た。

 それは何となく柴崎さんも感じているんじゃないかなと僕は思う。


「──なぁ新谷。明日もウチに勉強教えてくれんかなぁ?」

「いいよ、どうせ暇だし」


「あっでも授業料とか払えないし……私みたいな女子と一緒に話してるの見られたら恥ずかしいだろ」


「別に……彼女がいる訳じゃないし」

 俺は別に自嘲じちょうして言った訳じゃないのに、ギャルはあからさまに暗くなった。


「それ、私のせいなのに……暇なら勉強教えろとか厚かましいよな」


「そ……そういうつもりで言ったんじゃないよ」

 焦って僕は否定をする。


「もう彼女の事は吹っ切ってるし、勉強教えるのも好きだからやりたいって思ってるんだ」

 感情の起伏が激しすぎて、フォローに回るのにあたふたしてしまう。


「マジで?」

「本当だよ」

「好きだからヤリたいって思ってるの?」

 イントネーションが違う!

 ギャルはにやにやとこちらを見ている。


「違うってば。勉強!」

「あはは、分かってるって」

「もう……」


 彼女が僕を気遣って明るくさせてくれているのだろうとは思う。

 まぁさっきまで落ち込んでたの君なんだけどね。


「新谷は得意の勉強を教えてくれるワケだから、ウチも得意な事で何かお返しをしたいと思ってんだけど」

「それはどういう……」


 ついさっきの会話を思い出してしまった。

 エッチな事じゃないよね!?

 僕みたいなネクラからすると、陽キャのギャルは色々進んでいるように見える。


 僕は彼女のなまめかしい唇が、何を紡ぎ出すのかを待った。



「ウチが得意なものは……」

「ものは?」

「料理かな」

「料理かぁ……」


 僕の落胆を「期待しない」と取ったのか、今度はプリプリ怒り始める。


「なんだよその反応はよぉ。ウチは毎日父ちゃんの弁当を作ってるし、腕には自信あるんだけど?」


 とはいえ、なんか変な期待をしていましたと悟られたいわけではないので。


「そうなんだ、それは期待しちゃおうかな」

 等と取り繕った事で、トレードが成立してしまった。


「なんかさっきの勉強みたいじゃね?」

 何かを閃いた笑顔がまぶしいけれど、意味を理解しかねて首をかしげる僕に、柴崎さんは続ける。


「お互いの得意分野をイコールの左と右に持っていって、それが釣り合うと気持ちいい感覚!」


 ああ、確かに。

 きっと人間関係ってこうやって出来上がってて。

 相手のXの数値とか、Yの数値とかを求めあって理解を深めていくのかも。

 そしてすべての数がわかったとき、イコールで釣り合う関係がきっと一番いい関係なんだ。


 僕もその考えに同意した。

「お互いフェアトレードな関係で居ようね柴崎さん」



 こうして毎日朝こっそり弁当を貰って。

 放課後はこっそり勉強を教える日々が始まった。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆



────吐く息が白くなり始めたころ。

 ギャルの柴崎さんは、上機嫌で放課後の教室へと入ってきた。


「おい、見てくれよこれ!」

 そうやって広げたのは中間テスト。


「82点だぞ、ずげぇだろ!」

「頑張ったよね柴崎さん」

 秋口まで赤点の山を作っていたとは思えない点数に、彼女の努力がかいま見えて、僕も嬉しくなった。


「お前のも見せろよ新谷ぃ」

 そして勝手に僕の鞄の留め具を外して中を物色し始めるギャル。


「……95点? チッ」

 勝手に開けて勝手に確認しておいて舌打ちまでする始末。


「教えてる方が低いワケないだろ」

「まぁそりゃぁそうなんだけどよ……」

 じゃぁ何を期待してたんだろ。


「あ、これ今日も美味しかったよ」

 俺は開かれた鞄から、弁当箱を返す。

 お父さんの使い古しらしい、プラスチックの弁当箱は、あちこち柄が消えていて年期を感じる。

 でも中に広がる色とりどりのおかずに毎回感動すら覚える。


「本当に柴崎さんは料理が上手だねぇ」

「アホ、誉めても何にも出てこないぜ」

 照れてる彼女もかわいい。


「お礼……ってワケじゃないけどさ」

 僕は弁当箱が入っていた、その下へ手を突っ込んで、包装された小袋を取り出した。


「なんだよこれ」

「開けてみて、お弁当のお返し」


 綺麗な包装をスナック菓子の要領で乱暴に開けると、中から花をモチーフにしたネックレスが出てきた。


 毎日購買で昼御飯を買っていた僕は、柴崎さんのお陰でお昼ご飯代が浮いてしまった。

 このまま自分の趣味に使うのも気が引けて、そのお礼に柴崎さんにプレゼントを買ったのだった。


「かわいいネックレスだけど、ウチに似合うかなぁ」

 トップを裏返したり掲げたりして、顔の赤いのをごまかしながら彼女は言う。


 ぶっちゃけギャルの好きなものは分からなかったので。

「僕が柴崎さんにつけて欲しいなってものを選んだんだ」


「そっかぁ、ふうん、そうなんだ」

 恥ずかしそうにしながらも、嬉しそうでほっとした。


「でもなぁ、勉強と弁当で釣り合ってたのに、こんなの貰っちまったら……」

「いいからいいから、つけてみてよ」


 僕が半ば強引に言葉を遮ると、早速後ろの留め具を外し始める。


「ちょっ、ま! じっと見てくんじゃねぇ、つけたら呼ぶから目を閉じてろよ」

 そういって後ろを向くギャルが、自分のあげたアクセサリーをつけてくれた姿を想像しながら、言われるがまま目を瞑った。


 衣擦れの音と、チャリチャリと小さなアクセサリーの鳴る音。


「まだ?」

「もう少し」


 あまり付けなれていないのか、時間が掛かっている。


 その時、僕の髪に何かが触れたと思った瞬間、柔らかいものが僕の唇に当たった。

 それが何かを理解する前に驚いて目を開いた僕から、ギャルが今まで以上に真っ赤になって離れてゆく。


「どうだよ、似合うかよ」

「いや、あの、それどころじゃないって言うか」

 僕は唇に残った感触を確かめながらも、少ししどろもどろになってしまう。


「なんだよ、このネックレスはウチのファーストキスと釣り合わないわけ?」


 それが彼女にとって一大決心だったのは確かだった。

 ギャルに対する偏見で、こんな事は慣れたものだろうと思い込んでいた自分が恥ずかしい。


「貰いすぎだよ……」

 本当にそう思った。

 こんな小銭で買ったプレゼントには到底及ばないものを貰ってしまった気になって……。


「じゃぁ、お釣り……返してくれよ」

 ギャルはそういって、近づいて目を瞑った。

 僕は吸い込まれるようにその唇にキスをした。


 夕暮れの教室。

 自分達の頬が赤いのを夕焼けのせいにしながら。

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