六
三日ぶりに訪れた医者は、今夜が峠だと言った。
万智子は一種の覚悟とともに、父のそばを離れないことを決意した。
父の固い拳をにぎりながら、彼女は必死で祈った。
半分は「お父様」の無事を、もう半分はあふれだした感情のままに祈った。
おそらく多くの善行を積む万智子のことを愛しく思ったのであろう―――もしくは、憎らしく思ったのであろう―――、神は彼女に情けをかけた。
「ぅう…」
夕闇が広がり寂しく冷えた部屋の中、小さなうめき声が万智子の耳に届いた。
ぱっと顔を上げると、苦しそうに顔を歪める父がいた。
「お父様!気がついたのですか?」
清二は目を細めながら首を動かし、万智子を見た。
すると突然、輝くような笑顔を浮かべた。今まで見たことのない眩しさだった。
「お市さん!私を…私を迎えに来てくれたんですか?」
万智子の中で、さぁっと凍える音がした。
「お父様、いいえ、わたくしは万智子ですわ。お父様の…」
娘、と言おうとして万智子は押し黙った。あの薬屋で聞いた話が、どうにも頭の中で引っかかって仕方がなかった。
清二はそんな万智子の顔も、声もわからないらしかった。
「あぁ、お市さん、お市さん!ずっと会いたかったんですよ」
「お父様…わたくしは…」
きらきらと少年のような笑顔を向け、大きな手のひらをゆっくり持ち上げる父を見ながら、ついに万智子は諦めた。
せめて、父に幸せに行ってほしいと思った。
「お市さん、貴女が連れて行ってくれるなら、私も幸せです」
息を吸う。精一杯、声も知らぬ「お市」になることにした。
「…ええ、あなた。けれど、まだ死んではなりませんわ」
清二はいっそう嬉しそうに笑った。万智子の目からは涙が滑り落ちていた。
「あなた、あなたが亡くなってしまったら、万智子はどうなりますの?」
すると清二はきょとんと首を傾げ、それから愛おしそうに彼女の髪をなでた。
「万智子?ああ、あれはどうだっていいんだ。貴女がいるなら、どうだっていいんです」
万智子の胸の奥の、一番大事で綺麗だったものが、音を立てて砕けた。
「貴女の生き写しのような娘だった。しかしどこか物足りなかった」
彼女の手が父の拳から離れる。涙のせいで前が見えなくなっていた。
「やっぱり、貴女じゃないといけないんだ、お市さん。貴女が好きだ」
清二は惚れ惚れとしていた。万智子を通して見る、「お市」という女性に。
「初めて見たときから、ずっと貴女だけが好きだ。貴女だけを愛している」
彼はすがるように彼女の手を取った。
「私を連れて行ってくれ。貴女のもとに」
万智子はしばらく黙っていた。しかし小さく、こぼすようにええ、と囁いた。
清二はとびっきり嬉しそうに笑い、枕に沈み込みながら目を閉じた。分厚い瞼の端から、涙が垂れていた。
「あなた…わたくしも、愛していますわ。とても」
すこし屈んで、そっと口づけた。
最初で最後に、清二を「愛する男」として触れた彼女はあくまでも「お市」であった。
その後、駆け付けた医者によって清二の死が確認された。
それから何度も同じ日々が繰り返され、万智子は帰郷した小太郎と籍を入れた。
しばらく自身で行っていた家業を小太郎に譲り、万智子は彼の跡継ぎを二人産んだ。
どちらも利発な子に育っている。
万智子は縁側で眺めている。
ただ黙って、待っている。
愛しい人が迎えに来てくれるのを。
愛と言うもの 榎木扇海 @senmi_enoki-15
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