それからまた何年か経って、万智子も結婚にふさわしい年齢になっていた。


 村の奥にある小高い丘の上、銀杏の木で万智子は人を待っていた。

「ややぁ、遅れました、遅れました!」

相手方は誘っておいて遅れたことを軽く笑いながら現れた。万智子の同級生で、万智子に想いを寄せる青年のひとり、小太郎である。

 万智子が彼に呼び出した理由を尋ねると、小太郎は突然真面目な顔になって口を開いた。

「万智子さん、私、東京の大学に行くんです」

「えっ!おめでとうございます」

「それでですね…」

彼はしばらく躊躇う様子でもじもじしながら、やっとこさ続きを口にした。

「一緒に行きませんか」

万智子の眉間にきゅっとシワが寄る。

「…どこへ」

「どこへって、東京ですよ。もちろん」

小太郎は得意げに笑った。万智子は反対に暗い顔をしていた。

「わたくし、女ですよ」

「ええ、知っています。だからこそですよ。万智子さんは女だけれど、とても賢いでしょう?私と一緒に東京に来たら、私が教えて差し上げますよ。大学で学んだことを、あなたに教えた差し上げましょう」

「勉強のお邪魔になりますわ」

「まさか。むしろあなたが居ないほうがよっぽどですよ」

幸せそうに笑う小太郎を見ながら、万智子は、怒りに近い悲しみを感じていた。

「…わたくしは、行けませんわ。さようなら、あちらでも頑張ってくださいね」

くるりと踵を返して歩き出した万智子を小太郎が声を上げつつ急いで追いかける。しかし下駄の緒が切れて転んでしまった。そのうちに万智子はさきさきと進み、姿をくらました。


 憂鬱そうにからん、からんと下駄を鳴らしながら歩く万智子は、ぼんやりと考えていた。

「遅かったね」

のんびりとかけられた声に顔を上げると、懐手をして近づいてくる父の姿があった。

「お父様…」

「ちょうど散歩をしていたところでね、一緒に帰ろうか」

「はい」

清二の隣を歩きながら、万智子は嘘だ、と思った。父は散歩なんてする性分じゃない。

 かくりとうなだれた万智子の顔は一転、明るい笑顔が輝いていた。


 その晩、万智子は清二の書斎に訪れた。


 ノックをして、声をかける。ドアの向こうから眠そうな父の声がした。

 戸を開けると、書斎の一番奥の机でなにやら仕事をしているようだった。

「どうしたんだい?夜遅くに」

万智子は片手でドアを押さえながら、黙りこくっていた。

 もし、今、東京に行くと言ったら、父はどうするのだろう。

万智子は父親の丸い顔に穴が開くほど彼を見つめた。

「きっと…――」

「ん、なんだい?」

 きっと、望む回答はくれないのだろう。

「お父様」

 辛そうな顔で笑って諒解するのだ。

「なんだい」

 それが父だ。

万智子はゆっくりと清二に近づいた。近づけば近づくほど、あたたかい光に照らされる父親の顔が詳細に見えた。人の好さそうな顔を眺めながら思う。

 ではもしも、母が同じことを言ったらどうしたのだろうか。

万智子は微笑んでうつむき、本を読みたいのだと言った。清二はああ、と言い、好きに持っていくよう笑った。


 書斎を後にしながら、万智子は奥歯を噛み締めた。


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