資料その3 なぜ目的と期待が重要なのか

※作者コメント※

関係ないけど、道具論ってドーグロンって書くと、ポケモンみたいだよね

ーーーーーー



 「本格」「本格的」の言葉の掘り下げについての続きです。


 さて、資料その2で、定義という行為には目的があるとしました。


 定義の目的は、定義したそれを役に立たせるためにあります。つまりこれは道具のように役立つものとして定義を利用するということです。

 

 小説において、ジャンルを定義するという行為には一体いかなる意味があるのか?


 それは、本棚の上の方に「ファンタジー」と書いてあったら何を入れるべきで、「本格ファンタジー」と書いてあったら何を入れるべきか? こういった問題を解決できる、という意味があります。


 そして、本棚でジャンル分けを行うのは、読者のためです。

 読者にその話を楽しんでほしいから、カテゴリーに分類するわけです。


 もしファンタジーの本棚にSFとしか思えない話があったら、それを手に取った人は皆、首をひねるでしょう、これはここにあってよいものなのか、と。


 あるいは、こういう話を想像してみてください。


 その作品は、最初は現代の高校生が主人公です。彼は「何かを成し遂げたいという」漠然な人生の目標があり、進路で悩んでいます。そんな彼は祖父の元に向かい、彼が異世界の勇者であるということを聞きます。そして彼の使う転送魔法により、主人公はファンタジー世界を冒険しますが、途中からSFとして展開が代わり、かなり具体的な科学考証を元に魔法を科学して宇宙時代に到達し、星間戦争をおっぱじめる戦記物となり、ナメクジ人類との戦争に勝利した主人公はそのまま現代に戻り、これらの体験から、ただ普通の人として生きることを選ぶ。


 これはファンタジーでしょうか、SFでしょうか、戦記物でしょうか、仮にこんな内容の本があったとしたら、これは一体どこの本棚に入れるべきなのでしょう。


 まず、解決の手がかりになるのは、作者の目的です。

 ですが、ここで作者が「わからん、目的なんかない」と言い出したとします。


 そうなると何の手がかりもないため、困ってしまいます。

 目的がないならジャンルは「不明」。不明文学とするのが良いのでしょうか。

 いえ、そもそも……目的がないものを芸術に加えることが出来るのでしょうか。

 ここで先の「自然」と「芸術」の区別が生きてきます。


 作者が目的を語り得ないのに、我々がそれを語ることは出来ません。

 したがって目的がない状態で「生産」された文章は、「自発的な目的」を持たないAIがつくったものと本質的には同じものと見ても良いかもしれません。

 もちろん、これには異論があることでしょう。


 目的のない文章を、サルトルの書いた「嘔吐」に代表される「不条理文学」に分類を求めても良いかもしれません。あるいは「駄文」「文章のようなもの」でもいいかもしれません。


 ただ、仮に起こり得ることとしては、ある読者がこれを読んで、登場するヒロインが皆一様に可愛らしくて、主人公がハーレムをつくった部分を指さして、「これだ、これが読みたかったから」自分はページをめくり続けた、そう主張したらどうでしょう?


 その『謎の物体A』は、どこかの本棚に居場所を見つけられそうな気がしてきませんか?


 以上のことから、ここでは読者の体験に対する期待と目的に、ジャンルの定義の意義を求めているのです。


 いってしまえば、ジャンルの定義を「本を本棚に入れる」ための、「道具」として見ているということです。ちなみに、こういった物の考え方、これを「道具論」といいます。


 道具論は定義の真偽や結論の真偽に対して厳密な正確性を求めません。むしろ、結論を導き出すプロセスにこそ、真理があるという考え方です。

(なぜそうなるのかという、道具論の説明については、資料その4にゆずります。)


 話を戻しましょう。ライトノベルに限らず、本を手に取るときに「何を期待するのか」と言う部分に言及して役に立つようになっている。それが文章を使う芸術の範疇にはいる、「本格ファンタジー」というジャンルの定義に必要な要件といえるでしょう。


 ここでふたつの文章を引用をします。


『十代後半あたりの青春期に抱く憧れを、読者の心を惹きつけるための原動力として恥じることなく用いた小説』


 これは杉井光氏のnote『「ライトノベルの定義」に対する最終回答』からの引用になります。


 ついで、自身を「現役最古のラノベ作家」と称している笹本祐一氏は、「最後の挨拶」、同著『妖精作戦 PART Ⅳ ラスト・レター』、東京創元社、2012 年307 ~ 308 ページにこのような発言を残しています。


 「こんな話が読みたい」こんな話ってのは、つまり学園もので超能力者の美少女が転校してきて、違う、読みたいんじゃない。おれ、こういうことやりたかったんだ。しかし、当たり前のことながら代わり映えのしない現実に生きる残念な学生だった笹本の前にそうそう都合のいい物語の発端が起きてくれるわけがありません。超能力者の美少女も降ってこなかったし、鬼娘の宇宙人も押し掛け女房しには来てくれませんでした。せめてそんな話がないかと探し回ってみても、本屋にも図書館にもそんな本はありません。じゃあ、自分で書こう。自分が一番読みたい話は、自分が一番うまく書けるはずだから。笹本が一番好きだった小説はSF、その中でもジュブナイルと呼ばれていたジャンルでした。あれが一番面白かったから、あのジャンルを書きたい。コンセプトというよりは多分に願望含みの方針でスタートして出来上がった原稿をソノラマ文庫の編集部に持ち込み,「面白いと思うので書き直してみて下さい」と指示を受け、生まれて初めてくらいの集中力で書き直した原稿は活字になって本屋に並びました。「こんな話が読みたかった」コンセプトは幸いなことに読者に受け入れられました。


 つまり、作者は作者であると同時に読者であり、作者は「こんな話が読みたい」という目的からジャンルを選び、執筆をしていると言えます。


 現に私がそうですし、似たような人は何人も知っています。では、本格ファンタジーの場合はどういった目的が定義になるのでしょう?


 最初に提示した3つの定義を、再度ここに挙げましょう


①本格ファンタジーは、架空の世界や事象に対して一貫性と堅牢な構造を持たせることで、その内部論理や意味を明らかにする試みである。


②本格ファンタジーは、神話や伝説などから得られた着想を用いて、現実世界における問題や価値観に対する批判や反省を行う試みである。


③本格ファンタジーは、言語や記号論的に使われる事象や物品に対し、多様性や独自性を認めつつも、それらが表現する世界や事象の包括性や普遍性を探求する試みである。


 以上のことから、「本格ファンタジーとは、現実とは異なる世界を用いて、自分がどのように世界に関わっているか、また世界がどのように自分に影響を与えているか、幻想的な世界の楽しみを通して、自分と世界を再確認・洞察を得ることができるファンタジー小説」ということになります。


 自分と世界を再確認し、洞察を得るという部分、そしてファンタジー世界を利用するという部分が本格ファンタジーに期待される部分ということになります。


 これは言い換えれば、「世界と自分の相関性に付いて俯瞰する」ということです。


『世界と自分の相関性に付いて俯瞰する』というのは、自分がどのように世界に関わっているか、また世界がどのように自分に影響を与えているかを、高い視点から見下ろして考えると解釈できるでしょう。


 俯瞰とは、単純に「高いところから見下ろし、眺めること」の他に、それを通して「広い視野で物事を捉えること」という意味を持つ言葉になる。俯瞰することで、自分の立場や価値観だけでなく、世界の全体像や本質が理解できるということです。


 例えば、自分がどんな仕事をしているか、どんな趣味や関心を持っているか、どんな人間関係を築いているかなどを俯瞰的に見ると、自分が世界にどんな貢献や影響を与えているか、また世界からどんな恩恵や刺激を受けているかがわかる。


 これは「批評」であり、その世界の「自分」、すなわち「主人公」は、その世界の良いもの、悪いもの、どちらでもないということを作品の中で判断する、ことになります。(主に経験に基づいた好悪の価値判断、客観的かは問わない。)


 俯瞰することで、自分の存在意義や目的、幸せや不満なども明確になります。

 逆に、世界の出来事や情勢、文化や歴史などを俯瞰的に見ると、自分がそれらにどのように関わっているか、またそれらが自分にどのように影響を与えているかがわかるようになるでしょう。


 世界の変化や課題、多様性や共通点なども理解できるようになる。


(これは個の拡大が公であり、社会である。人間という個の要求に基づいて社会が構造を持つという、※E.デュルケームを始めとする経験科学として社会学を形成した一般的な考えに基づいての発言です)


 ※エミール・デュルケームは、フランスの社会学者。オーギュスト・コント後に登場した代表的な総合社会学の提唱者であり、その学問的立場は、方法論的集団主義と呼ばれる。また社会学の他、教育学、哲学などの分野でも活躍した。


 ここで世界と自分の相関性に付いて俯瞰することは、自分の視野を広げたり深めたりすることにつながります。


 そしてこうした事は無知を取り除くことといってもいいです。それは自分だけでなく他者や社会に対する理解や共感も増すことができます。


 (そして、無知を取り除くことは、人間の攻撃性を取り除くことにもつながります。しかし、これは別のテーマになりますので、今回は語りません。)


 また、自分の行動や選択に対する責任感や意識も高まることになります。自分を俯瞰することは痛みを伴い、とても難しいことですが、本格的な哲学的思考を行わずとも、人は日常生活で様々な情報や知識を得たり、様々な人や場所と交流したりすることで、俯瞰する力を養うことができます。それには、本を読む、という擬似的な人生の体験も含めることが出来るといえるでしょう。


・・・


 洞察を得る、という目的の部分には、既存のジャンルの複合的要素が見られます。

 まず1つは「教養小説」の属性です。


 「教養小説」とはドイツ語でビルドゥングスロマンといい、「成長小説」と訳される小説のジャンルです。


 これは、主人公がさまざまな体験を通して内面的に成長していく過程を描く小説のことです。この概念はドイツの哲学者ヴィルヘルム・ディルタイが、ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』を中心に、それに類似した作品群を指す言葉として使用したことによって初めて知られるようになりました。以降は特にドイツの小説における一つの特質を表す言葉として知られるようになりました。


 教養小説は人間形成(パイデイア)の概念を反映したものであり、主人公が自己を探求し、社会や文化と関わりながら自己実現を目指す物語です。教養小説は読者にも教育的な効果を与えることが期待されています。「教養小説」の成立の背景には、ドイツ市民社会の成立と、啓蒙主義の浸透の過程でギリシア思想を摂取したことによって人間形成(パイデイア)の概念が広まったことにあるからです。


(この前段階にはJ.H.カンペがその教育思想を小説という形態で教育を試みたこともあり、それも参考になるかもしれません。教養小説はこれを受け、後期啓蒙主義の市民階級の自己理解をさらに助けようとしたともいえるかもしれません。ですがここでは、それは直接言及せず、アイデアにとどめておきます。)


 しかし、実際に現代小説(ポストモダン小説)の一ジャンルとも言える「本格ファンタジー」においては、教養小説的な「ベタな成長物語」を扱うことは極めて稀な例だと言えます。ポストモダン小説は、村田 沙耶香氏が著した『コンビニ人間』のように、ある種ヒステリックなまでのリアリズムがある物も含まれます。

 それは成長に対する懐疑であり、現実に対する主人公の対立があります。


 そしてもう一点、「本格ファンタジー」の定義に対して、興味深い洞察を頂きました。


ーーー引用ここからーーー


 言葉の縁取りもそうですが、言葉は認識の一形態です。更に高次の概念に行くならば、属性の異なる存在から眺めた世界を旅するのが本格だと思いました。いわゆるフィルターです。


 なろうは異世界でありながらも、導入し易さを重視し、現代日本と変わらないフィルターを、ファンタジーでは、「闇」とか「マナ」とかそういった異世界特有の概念をその世界の言葉で定義します。


 ですが、物語の果てで、それらは現実世界に対応する「作者が大事にする何か」と等価であることを読者に気づかせる、いわゆる寓話的な内容を持つものですね。一見すると(これらは)迂遠な表現ですが、馴染みのない言語と世界で旅するからこそ、読者の好奇心と探究心を刺激する。そうやって心の感度が上がった状態でたどり着いた真実だからこそ腹落ちするという構造が、二部分目の芸術とその他の違いだと解釈しています。


ーーー引用ここまでーーー



この洞察は、


●なぜ本格ファンタジーがわかりずらいのか

●なぜ本格ファンタジーがファンタジーという概念を使うのか


 といった事を説明する可能性があります。


 引用した文章の要旨は、このようなものです。


 言葉は、私たちが世界を認識するためのひとつの方法です。

 さらに認識そのもの、仮想、幻想を含めた概念に触れるには、現実とは属性の異なる存在から(主人公が)俯瞰したものを、更に読者として鳥瞰して、世界を旅するのが好ましいと考えます。


 世界を眺めるために使用する『視点』(言語や概念を含めた世界の素材集をイメージしてみてください)これをフィルターと言います。


 いわゆる「なろう系」は異世界でありながらも、転生した日本人や、日本人と極めて近い価値観を持つ、異世界の住人の視点です。


 しかし、本格ファンタジーではその一例として、「闇」や「マナ」など、異世界特有の要素に根ざした視点を使用します。


 この本格ファンタジーの物語では、現実世界に対応するメッセージやテーマが隠されています。これらは寓話的性質を持ち、表面的な物語とは別に、教訓や道徳などの深い意味を持っています。


(魔法は魔法だけで完結せず、その多寡が身分制度、貴族制、貧富の差などの問題につながることが良く見られます。マナの概念はこういった問題の間を飛び回り、読者が主人公が世界に対して善悪や意味、それらの検証のプロセスを確かめるために存在している、という意味です)


 一見すると回りくどく見えるかもしれません。しかし、読者は、馴染みのない言語や世界に興味を持ち、探求する事を通して、物語の真意に気づくことで喜びが得られます。


 わかりにくさはかえって読者の感性や想像力を刺激し、高める効果があります。そして、読者は自分で読み解いた真実だからこそ、物語の最後で、納得感のある感動を得ることができます。


●言葉や概念は、現実とは異なる世界を見るためのフィルターとなる。


●本格ファンタジーは、異世界の法則やメッセージを表現するために独自のフィルターを使う。


●本格ファンタジーの物語は、寓話的な性質や意味を持ち、そのまま語るより、読者の感性や想像力を刺激できる。ということです。


 さて、私がした本格ファンタジーの定義という行為は何だったのでしょう?


 それ自体を道具主義の観点から見れば、ある概念や言葉の意味や内容を明確に限定することで、他と区別できるようにするための道具・装置として機能するようにしたかった。これが目的であると言えます。


 私がしようとした定義の目的の価値は、その概念や言葉が役に立つかどうか、すなわち現象をどれだけうまく説明・予測できるかによって決まります。


 定義が現象と一致しない場合や、より良い定義が見つかった場合は、定義を変更したり捨てたりすることができます。定義自体に真偽や実在性を問うことはしません。


 例えば、「水」という言葉の定義は、時代や文化によって異なります。古代ギリシャでは、「水」は四大元素の一つであり、自然界の基本的な物質であると考えられていました。しかし、近代化学では、「水」は水素と酸素から構成される分子であり、他の物質と化学反応を起こすことができると考えられるようになりました。このように、「水」の定義は、現象を説明・予測するための道具・装置として変化してきたのです


 したがって、道具主義の観点から言えば、定義という行為には目的があります。その目的は役に立たせるためであり、その評価、すなわち役立ったかどうかは、現象との一致度や有用性によって評価されます。定義自体に固執することはありません。


 目的に応じて変質すること。それが道具主義の性質だからです。


 以上です。

 長くなったのでいったん筆を置くことにします。




※作者コメント※

 ここまで語ったことにより、ファンタジー要素を使わないノンフィクション要素を持つ場合、それはポストモダニズム文学に含まれる可能性がある。ということが言える気がしてきました。これは、ポストモダニズムの系統につながる作品にファンタジー要素を足すことで、「本格ファンタジー」になる可能性があるということです。これに関しては実験が可能なので、是非やってみるべきでしょう。


 そして、ポストモダニズム文学を語るにあたって、モダニズムとハイモダニズムについて語る必要も出てきました。いやぁ、楽しいですね。


 我々が何を作ろうとしているのか?

 なにを求めているのか、段々とそれが見えてきた気がします。

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