資料その2 なぜ「本格」をつけるのか?


 さて、本格ファンタジーにはなぜ「本格」が付くのでしょう?

 なぜ「ファンタジー」では、いけないのでしょうか。


 本格ファンタジーを3つの要件で定義できたなら、その定義を満たさないのがファンタジーなのでしょうか?


 そもそも「本格ファンタジー」とは何か?


 私はここで「本格ファンタジー」とは、

「本格的なファンタジー作品」であると定義します。


 「本格ファンタジー」が正式な名称とするなら、厳密に考えると、その作品には、親となる作品や流派が必ずあるはずなのです。


 これについて、何故そうなるのかは後述します。

 まず『本格的』の言葉の意味から考えてみましょう。


「本格的」(ほんかくてき)には、以下の二つの意味があります。


 ①本来の格式をそなえているさま。本式。

 ②すっかりそのようであるさま。


 ①の意味は、「本格的に学問を学ぶ」のように、趣味の領分を超えて、なりわいとする。何らかの根本的な方法とする。それに従うという意味です。さらに、「本格的なオーケストラ」のようにその対象が必要とする本質を完全にそなえているという意味も持ち得ます。


 ②の意味は、「本格的に夏めいてきた」というように、事物がすっかり形容したい様子にある状態を指します。こちらも対象の本質が重要になってきます。


 「本格」とは、「本来の格式」「もとからの正しいやり方」といった意味です。

 技術や芸能などには、その流派に伝わっている形のようなものがあります。これは歴史的なものであったり、前例に基づいています。


 「格」には「きまり」という意味もあるため、「本格」は、ひとつの決まったやり方に従う、というニュアンスもあります。


 つまり、仮に本格ファンタジーが存在するとするなら、明確な型や流派があるはずなのです。ここで私が「ねくろん派ファンタジー」を作っても本格と認め続けると言う方法をとっても良いのですが、さすがに気恥ずかしいのでやめておきます。(ですが解決策であるのも事実です)


 ですので「本格ファンタジー」は「本格的なファンタジー作品」である。そうしたほうが、その実態を正しく捉えられるのです。


 「本格的」と言う言葉には、性質を表す「的」がついていることに注目しましょう。「本格的」は何らかの決まった方法というよりも、「その物事の本質や性質」を指ししめそうとしています。本格的に夏であるのは夏である事を指しているのではなく、気温や太陽光の強さを指しているのです。


 ある対象物の本質を満たしていることが「本格的」である。

 と、定義すると、使い方のイメージがしやすいでしょうか。


 本格的と言う言葉は、

「本格的なごはん(名詞)」

「本格的に勉強する(動詞)」

 として使用します。


 いずれにおいても一般的な解釈として、「本質を備える」「それらしくある」といった意味で使われています。


 例えば「本格的な小説家」であれば、小説の技術に対して、その本質をよく理解した人を指すことに使われるはずです。


 「本格的」と言う言葉は、非常に幅広い事物に対して使え、「それらしくある」ものに何でもかんでも使われてしまいます。


 使った人は、「何となくそう思ったから」という、大した根拠もなく使ってしまったケースが大部分かもしれません。


 「本格的なファンタジー小説」と言った場合、何を持って「ファンタジー小説の本質・特性を満たしている」と言えるのか?


 定義や命題がなければ、「手が込んでいる」「本人が満足できる仕上がり」といった主観的な観念に基づいた「それらしい」意味でしかないでしょう。


 つまり、「本格的に勉強する!」のように、自分の出来る範囲でがんばって書いたファンタジー作品を「私が本格的に書いたファンタジー」の意味で、「本格ファンタジー」と主張しても、それには、何の間違いもないのです。


 例えば侍と盾、弓の関係が間違っているのにもかかわらず、日本の侍が異世界で活躍する本格ファンタジーを自称されたら、歴史に詳しい人は困惑するかもしれません。しかしそれは「本格的な歴史考証」なのか、「侍の生きざまを描いた本格的な戦士の人生のお話」なのかで、本格が意味するところが変わってしまいます。


 万物の尺度は人間です。人間が評価する以上、正しくもあり、正しくもない。そういった事は往々にして起こり得ます。では、どの部分が正しく本格なのか?


 「本格」「本格的」という言葉は本当に有意味な言葉なのでしょうか。

 「本格ファンタジー」の「本格」は、本来の意味を離れて使用されている事も十分ありえるのではないでしょうか?


 ここで「言語ゲーム」という概念についてご紹介しましょう。


 ★★★


 さて、言語ゲームというのは、言葉を使って遊ぶようなことです。


 例えば、ある人が「石」と言ったら、別の人が石を持ってくるという遊びがあるとしましょう。これは、石工とその助手がやっていることに似ています。


 石工が必要な石材の名前を言うと、助手がそれを持ってきます。この遊びでは、「石!」という言葉は「石を持ってこい」という意味になります。


 でも、別の遊びでは、「石」という言葉は違う意味になるかもしれません。例えば、ある人が「石」と言ったら、別の人が「紙」と言ってじゃんけんするという遊びがあります。この遊びでは、「石」という言葉は「グーを出す」という意味にななるわけです。


 このように、言語ゲームというのは、「言葉の意味がその遊びのルールによって決まる」ということです。同じ言葉でも、違う遊びでは違う意味になります。そして「その遊びをする人たちだけがその意味を知っている」のです。もし何も知らない人がそれをみたら、何をしているのかわからないでしょう。


 ヴィトゲンシュタインという哲学者は、私たちが普段使っている言語も、実は色々な言語ゲームの集まりだと考えました。私たちは、学校や家庭や友だちと話すときに、それぞれ違う言語ゲームをしています。そして、その言語ゲームのルールを知っているからこそ、お互いに意味を伝え合えるのです。


 しかし、時々私たちは言語ゲームのルールについて混乱したり、間違ったりすることがあります。例えば、「幸せ」という言葉はどういう意味なのでしょうか。これは、人によって感じ方が違ったり、状況によって変わったりするかもしれません。だから、「幸せ」という言葉の定義を一つに決めることはできないのです。


 ヴィトゲンシュタインは、言葉の問題について考えるときには、その言葉がどんな言語ゲームの中で使われているかを見ることが大切だと言っているわけです。そして、その言語ゲームのルールを理解することで、その言葉の意味や使い方を明らかにすることができると考えました。


 この言語ゲームの概念は、ヴィトゲンシュタインの後期の研究、『哲学探究』にあるもので、彼は言語と世界の対応関係から離れて、言語の使用に注目しました。


 彼は言語の使用を「言語ゲーム」と呼び、様々な文化や状況における人々の言語的活動を分析します。


 彼によれば、言語の意味は使用によって決まり、使用は文脈や目的によって変化するため、一つの言葉に一つの意味があるということはありません。したがって、「本格的」という言葉の意味も、その言語ゲームに応じて異なると考えるのが妥当でしょう。


 例えば、「本格的な料理」と「本格的な推理小説」という文脈では、「本格的」という言葉の意味やニュアンスは異なるでしょう。前者では、「伝統的な方法や材料で作られた料理」という意味や、「高品質で美味しい料理」というニュアンスがあるかもしれません。後者では、「厳密な論理や法則に基づいた推理小説」という意味や、「難解で知的な推理小説」というニュアンスがあるかもしれません。


 このように、「本格的」という言葉は、それぞれの文化や状況における人々の価値観や『期待』によって意味付けられていると言えます。


(ではその『期待』とはなにか? それについては資料その3にゆずります)


 以上のことから、先の3つの定義、そして芸術とは目的を持つものであるという命題を元に、「本格的なファンタジー」という言葉に期待される意味を述べるとすれば、次のようになるでしょうか?


「本格ファンタジーとは、現実とは異なる世界を用いて、自分がどのように世界に関わっているか、また世界がどのように自分に影響を与えているか、幻想的な世界の楽しみを通して、自分と世界を再確認・洞察を得ることができる・・・ファンタジー」


 ここでようやく考察できそうな「命題らしきモノ」が出てきました。


 ですが、これ以上の考察は「なぜ『本格』をつけるのか」からずれてしまうので一旦筆を置きます。この続きは、別のテーマを立てたほうがよいでしょう。



 以上です。








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