資料その1 自然と芸術の違い

※作者コメント※

資料その1と書きましたが、その2があるかは不明です。

ゴメンナサイ・・・

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 さて、先の3つの定義に補足をしたいと思います。


 本格ファンタジーを定義する上で、なぜ先の3つが定義になったのか?

 それは本格ファンタジーが、表現であり、芸術の範疇に含まれる存在である。

 そういった仮定があるからです。



 さて、芸術に対しての「一般的な定義」は何でしょう。


 一般的な定義として、芸術とは、表現者あるいは表現物と、鑑賞者が相互に作用し合うことなどで、精神的・感覚的な変動を得ようとする活動を表します。

 文学、音楽、美術、演劇、映画などが芸術の諸分野として挙げられます


 つまり、作品の創作と鑑賞によって精神の充実体験を追求する文化活動。

 それが芸術ということです。


・・・


 ここでもう一つの定義を提示します。


 バウムガルテンから続く、審美哲学的な定義です。


 それは芸術とは「目的を持つ存在」である。ということです。


 ここでいったん、バウムガルテンに付いて説明します。彼は18世紀のドイツで活動した思想家で、「美学」の提唱者として知られる人物です。


 バウムガルテンは美の規則を体系的に説明しようとしました。しかし、彼は講義用の教科書しか残さず、彼が著した『美学』は未完のまま終わっています。


『美学』では美醜の判断については好悪判断に基づくということしか読み取れませんが、修辞学の部分においては、ある示唆を得られます。


 バウムガルテンは美の規則の体系的な説明を試みました。


 そして彼は美の規則を「完全性」という言葉で現しているのですが、これは複数の部分がある一つの根拠と一致することであり、「複数の部分がある同じ規則に適合して規定される」ことです。


 これはどういう意味でしょう?


 例えば自動車を考えてみましょう。


 自動車のタイヤ、ハンドル、エンジンユニットは複合された完全性を持ちます。

 タイヤは完全性(作られた目的)の根拠を持ちます。


 すなわち、タイヤの存在の根拠は、運転者が望む方向に移動できることにあります。後者のハンドル、エンジンの根拠にも、同じ事がいえます。すなわち、ハンドルを切ることで方向を変えられること。エンジンユニットは前進、後進を可能にすること。


 したがって、自動車には「目的地に移動する」ことに応じた規則性がある。

 そういう事が言える。ということです。


 芸術がなりたつ完全性とは何か?

 それは合目的性、つまり目的に適っているか?

 そう解釈できるわけです。


 この合目的性から批評について語ったと思われるのがノエル・キャロルです。

 彼は芸術批評の「哲学」として、『批評について: 芸術批評の哲学』を著しました。


 その内容は非常に難解で、説明のために取り上げたのを後悔するレベルなのですが、彼の説明からは、「批評の対象とするのは作品ではなく、作者の目的である。」といった主張が読み取れます。


 ここでも芸術とは「目的を持つ存在」である。ということが出てきました。

 さて、なぜ作者の目的が重要なのでしょう?


 いったん、芸術に対しての「一般的な定義」に戻りましょう。


『一般的な定義として、芸術とは、表現者あるいは表現物と、鑑賞者が相互に作用し合うことなどで、精神的・感覚的な変動を得ようとする活動を表します。』


 以上の『表現物と、鑑賞者が相互に作用し合うこと』について考えてみましょう。芸術から受ける刺激が私たちに精神的・感覚(視覚、聴覚、etc)な変動を与える。


 では自然から受ける刺激や感動はどうなのでしょう? 何故この議論が出てきたかと言うと、思想家には「自然は芸術なのか?」と言う疑問があったからです。


・・・


「自然は芸術を模倣する」


 これは、『詩学』を著した古代ギリシャの哲学者アリストテレスの言葉です。

 「芸術は自然を模倣する」というのは、彼の師、プラトンが提唱したイデア論に由来しています。


 プラトンの唱えたイデア論から芸術を説明すると、以下になります。


●人・動物・事物には「イデア」という究極の理想の存在があり、イデア界に存在している。


●現実世界に存在するものは、そのイデア界の存在を模倣したものである。


●故にこの世のものを再表現した芸術は「模倣の模倣」であり、贋作から贋作を更に作っているようなものである。よって真に美なるものから離れている。しかし、芸術家が霊感によってイデアに触れることはできる。そのため、優れた芸術とは、霊感に基づいたイデアの模倣なのだ。


 プラトンは以上のように考えました。


 古代ギリシアでは芸術は「ミメーシスMimesis」(模倣)でした。


 アリストテレスはプラトンの考えを継承しつつ、自分なりのイデアに対する考え方を発展させます。


 アリストテレスは、芸術は模倣、すなわち、喜劇は貧しい人間の、悲劇は高貴な人の模倣であると考えます。そしてカタルシスは「悲劇が観客の心に怖れ(ポボス)と憐れみ(エレオス)の感情を呼び起こすことで精神を浄化する効果」であるとしました。そして魂の浄化は現実には起きえません。


 故にこのことからアリストテレスは芸術作品に対して「時に現実を上回る価値を持つことがある」とし、芸術はもとになった現実を超えた感動を生み出すことがあるとしました。


 アリストテレスの芸術論は、プラトンのイデア論を引き継いだものでした。

 しかし、プラトンが「芸術はイデア界の単なる模倣である」としたのに対し、アリストテレスの『詩学』は「芸術はイデアを越えることがある」とした点で画期的だったのです。


 こうした背景があり、「芸術は自然を模倣し、超える」という認識が生まれます。この模倣の考えは、その後の西洋の芸術論に受け継がれます。人の作り出した芸術は、自然そのものを超えることがある。そこから芸術を自然(人間を含めた)の上位に置く、いわゆる芸術至上主義の立場が生じ、「自然は芸術を模倣する」というワイルドの有名な逆説を生むことにもなりました。


 19世紀の詩人、オスカー・ワイルドは、当時流行していた写実的な小説について、『嘘の衰退』でこのように批判しています。


「人生を粗雑(Crudeの原語は生々しい肉・血)なものと知っていて、それをそのまま(Raw火を入れることがない肉のまま)出すことしか出来ない。」


「芸術が人生を模倣するよりも、人生が芸術を模倣する(中略)このことから当然、外界の自然もまた芸術を模倣している」


「自然が我々に見せるものは、我々がすでに絵画や詩で見たことのあるものだけだ。それが自然の魅力であり、また弱さの説明でもある」


 どこかで聞いたことがないでしょうか? 「まぁきれい、ジブリみたい!」と言って屋久島の自然を見に行く。そういった構造について語っています。


 オスカー・ワイルドは、人生や自然の中にあるものは、現実のありのままではなく、芸術によって見出される(目的を持って区別される)。

 我々の世界の見方は、芸術に影響されるとしたのです。


 例えば、ロンドンの空はどうでしょう。


 ウィリアム・ターナーは19世紀ロマン主義の画家であり、印象派を何十年も先取りしたと言われています。彼が生まれ育ったロンドンの空は霧がかった曖昧な景色であり、イタリアの明るい陽光と色彩が、北ヨーロッパに住む画家たちの憧れでした。


 石鹸水と水に溶いた漆喰で塗り固められたような、陰鬱なロンドンの霧の空を美しいと思った人は、当時はいなかったのです。


「なんだこれは? どこで何を描いたかわからない。」ターナーの絵画はそのように評されました。しかしターナーは「どこで何を描いたかではなく、一つの印象を呼び起こすこと、それが肝心なことだ」と、心象に対する目的を口にしました。


 確かに異世界についての絵を見たり文章を読むことで、私たちは感動することができます。しかし、そういった精神的、感覚的な変動は、山や川を見る、夕日を見る。風に当たる。現実の刺激によっても感動は得られます。


 そこに違いがあるとしたら、自然はあるがままであり、目的がない。

 芸術には目的があるということです。


 木は誰かにメッセージを伝えようとして枝を伸ばしているわけではありません。自然は本来的に存在するものです。


 芸術は人間の創造物であり、何らかの意図やメッセージを伝えようとするものです。一方、自然を見るときには、美しさや超然的な存在に対する崇高さなどの感覚や感情を得ることができます。


 ですが、それらは自然そのものから生じているのではなく、私たちの心や文化によって生じているものです。


 芸術作品を鑑賞する時、人はそこから意味を読み取ろうとします。しかし、それは作品から生じているのではなく、鑑賞者の内面で生まれているのです。


 もちろん、この考え方にも異論や批判は存在するでしょう。


 自然も芸術同様、目的や意味を持つ。また、人間も自然と同じく現象なので、目的をもっているというのは錯覚だ。といったような。


 自然は神や人が目的を持って作った創造物ではありません。しかし、そこにあるだけで私たちに何かを教えたり、示唆を与えます。そして自然は崇高なるものとして、保護や神話の対象になります。


 そういった意味では、彼らは単なる刺激ではなく、増殖や保護のための目的を持っているともいえます。しかし、本当のところは分かりません。


 私たち人間がお互いの内心を想像できないように、世界の内心を私たちが想像することも不可能ですから。




 ●結び


 芸術とは何かという問いには、一つの答えはありません。時代や文化によって、芸術の形態や機能は変化し、人々の感性や理解も多様にあります。


 だからこそ、芸術は私たちに新しい視点や感動を与えることができます。

 芸術が何かの目的をもっているとするならば、それを鑑賞することは、自分自身やその芸術の作成者と対話することでもあります。


 芸術に触れることで、私たちはどんな変化や学びを得ることができるのでしょうか。皆さんもぜひ、この議論に関心を持ってみてください。




 ※補遺


 自分で見返したんですが、芸術は自然の模倣から始まり、そのうち目的を持ち自然の模倣を超えるようになった。


 そして私達の社会システム。道徳、罪、これらの概念は自然には存在しないものであり、その本質を語るために、芸術、ファンタジーという嘘を使う事ができる。

 以上のテキストからは、そのような内容も見いだせますね。

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