【ねくろん式】本格ファンタジーの定義

ねくろん@カクヨム

本格ファンタジーの3つの定義と解説

※作者コメント※

まだ下書きに近い文章なのでおかしな部分があります。ご勘弁を!

これらは草稿であり、一例です。

これらの定義が何の視点を元に書かれたかは、のちの資料に続きます。

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 では、早速本格ファンタジーの定義を行っていきましょう。



 本格ファンタジーの定義を大きく3つに記号的に抽象化(複数の情報に共通する要素を抜き出すこと)してみました。



①本格ファンタジーは、架空の世界や事象に対して一貫性と堅牢な構造を持たせることで、その内部論理や意味を明らかにする試みである。



②本格ファンタジーは、神話や伝説などから得られた着想を用いて、現実世界における問題や価値観に対する批判や反省を行う試みである。



③本格ファンタジーは、言語や記号論的に使われる事象や物品に対し、多様性や独自性を認めつつも、それらが表現する世界や事象の包括性や普遍性を探求する試みである。



 以上が本格ファンタジーの3つの定義となります。

 では、それぞれの事象の定義に対して、解釈を行っていきます。



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①本格ファンタジーは、架空の世界や事象に対して一貫性と堅牢な構造を持たせることで、その内部論理や意味を明らかにする試みである。



 本格ファンタジーというのは、空想の世界や出来事を作るときに、しっかりと考えて作ることです。空想の世界や出来事は、本当の世界とは違うことがたくさんありますが、その違うことにも理由があって、矛盾がないように作られています。


 例えば、魔法が使える世界では、魔法のルールや種類が決まっていて、誰でも好きなように魔法を使えないかもしれません。そうすることで、空想の世界や出来事が本当にあるかのように感じられるのです。


 本格ファンタジーでは、その作品世界や出来事が、破綻なく成り立っている必要があります。


 空想の世界や出来事を作る人は、自分が作ったものに意味や意義を持たせようとしています。例えば、空想の世界や出来事には、人間の心や社会の問題などを反映させたり、メッセージを込めているということです。そうすることで、空想の世界や出来事を読んだり見たりする人は、現実における自分の考え方や感じ方を変えたり深めたりすることができるのです。


 本格ファンタジーは、「空想」ではありますが、空虚な夢ではありません。


 空想の世界や出来事を作る人も読んだり見たりする人も、その中にある「理由」や「意味」を考えなければなりません。しかし、空想の世界や出来事は、本当の世界ではありませんが、言葉や考えの本質を通して、本当の世界のように成り立っているのです。


本格ファンタジーは、「空想と本質を結びつける文学」と言っても良いでしょう。



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②本格ファンタジーは、神話や伝説などから得られた着想を用いて、現実世界における問題や価値観に対する批判や反省を行う試みである。



 本格ファンタジーでは、未来や過去の現実、おとぎ話や昔話に出てくるような不思議な世界が舞台になります。その世界には、魔法があり、ドラゴンや妖精といった人間以外の生物が存在します。


 ですが、その世界にも人間やそれに類するものが住んでいて、それぞれに感情を持って、喜んだり悲しんだり怒ったりします。社会性を持つ人間/生物であれば当然、家族や国があり、民族や宗教といった考え方がそれぞれに存在します。そして、大事なものを守ろうとして対立や衝突が起きるでしょう。人種問題、身分、思想上の対立、経済力の格差に基づく地政学的な衝突……異なる世界にも、現実と類似した問題が存在するはずです。


 そんな世界に放り込まれた主人公は、一体どうなるでしょうか?


 きっと、自分の運命や使命に基づいて、彼は大きな冒険や戦いに巻き込まれていきます。主人公は、自分の仲間や敵、超自然的な存在や神々と出会って、色々なことを学んだり成長していき、その世界にある問題や価値観について疑いを持ち、考えることでしょう。そこで批判や反省が発生するはずです。


 本格ファンタジーでは、現実世界における問題や価値観、それに対する対処や批判を主人公に行わせることで、読者に感動や考察、閃きを与えることを目指します。


 つまり、本格ファンタジーは、「空想の世界で現実を考える」文学です。



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③本格ファンタジーは、言語や記号論的に使われる事象や物品に対し、多様性や独自性を認めつつも、それらが表現する世界や事象の包括性や普遍性を探求する試みである。


 さて、この部分は少し難しいですが、説明を試みます。

 本当に難しいです。ガチです。



 本格ファンタジーでは、空想的な物語を描き出しますが、その物語の舞台となる世界や登場する事物について、独自の言語や記号を作り出すこともあります。


 例えば、『ロード・オブ・ザ・リング』(以下LoR)を例に取りましょう。


 本格ファンタジーと言われてパッと思い浮かぶのがこの作品ですが、LoRでは、作者は架空の世界の歴史や地理、文化や宗教、種族や言語などを細かく設定し、その世界に住む人々の生活や思想、感情や行動を描き出しています。


 本格ファンタジーでは、作者は自分が創造した世界や事物に多様性や独自性を与えることで、読者に新しい体験や発見を提供しようとします。


 しかし同時に、その世界や事物が表す意味や価値は、現実の世界や事象と共通するものであることを目指します。


 つまり、本格ファンタジーは、空想的な表現を通して、普遍的な真理や人間性を探求する試みであると言えます。


 ではなぜ、私たちの世界と同じ言葉ではいけないのでしょう?


 何故ジャガイモをポポトと言わなくてはいけないのでしょう?

 なぜファルシがルシでコクーンなのか?


 実際、ファンタジーの世界であっても、私たちの世界と同じ言葉で物事を説明しても構いません。ただし、その世界が私達の世界と相似しているなら。


 しかし、ファンタジーの世界では、私たちの世界とは異なる文化や歴史、宗教や哲学、種族や魔法などが存在するため、それらを表現するためにエルフ語や魔法の言葉などの独自の言語や記号が必要になるのです。


 これはもっと言えば現実の哲学にも関係します。

 存在するとは知覚することであり、区別です。


 まず通常、私たちはリンゴがあると考えますが、そこにはリンゴの香り、そして色、重さ、形があります。


 となると、そこにはリンゴではなく、知覚があると考えることもできるのです。


 しかし日常的な感覚で言えば、物質があるから人間がモノを知覚できる。

 そう考えるのが普通です。


 しかし、私たちが見る存在は、すべて主観的な意識の上にあります。

 そもそも存在するとは何なのでしょう?


 何故私たちは本格ファンタジーの世界を、文字に過ぎない存在を、存在するものとして知覚しているのでしょう。


 それは私たちが現実の世界を知っているからです。

 空想の世界は、現実の世界の断片からなり立っています。


 それを成り立たせているのが、言語の差異のシステムです。

 

 日常的な感覚で言えば、言語とは物に貼り付けられた名札のようなものです。


 しかし、これでは空想の世界が成り立たないのです。

 なぜなら、それは現実に存在しないからです。


 ですが私たちはそれを知覚できる。エルフといえば、人間とかけ離れた美しさを持ち、耳の長い、人間に近い種族として認識しています。


 もうおわかりでしょう。

 言語とは、何かと何かを区別するために付けられたものなのです。

 

 単純に耳の長い人類をエルフにしたわけではなく、エルフを人間と区別したいから、エルフという名前をつけたのです。


 ただのニュアンスの違いに思えるかもしれません。

 しかし、違うのです。


 地面からいくつかの石を拾い上げ、並べたところを想像してください。

 ここでそれぞれの石にファルシ、ルシ、コクーン、パージと名付けたりはしないでしょう。「たくさんの石」のはずです。


 では、スーパーに並んでいる、色々な果物を想像して見てください。

 きっと左から順番にリンゴ、レモン、スイカ、そのように答えられるはずです。

 

 それは貴方にとって区別する必要があったからです。

(石の場合でも、貴方が鉱物学者だったなら、話は別のはずです)


 区別する必要があるから言語を持っているのです。


 ここでもし、鉱物からなる生物と、本格ファンタジーの世界で遭遇したとしましょう。彼は有機物を食べられません。


 果たして、彼は果物を見分けることが出来るでしょうか?


 つまり、言語とは存在をどのように区別したいのか?

 その価値観に由来して発生するものであり、その価値観の違いが言語体系の違いを生み出しているのです。


 これは英語における白いうさぎ(Rabbit)、茶色いうさぎ(Hare)の違いにも見られます。不思議の国のアリスでは、白いウサギは女王の従順な部下であり、茶色いウサギは狂った3月ウサギであり、明確なキャラクターの差が言語の区別を元に描かれています。


 そして、ここからが重要になってきます。


 これらの言語観に基づいて考えると、本当に今の世界に存在する、世界の名前の付け方は完璧で、完全に正しいのでしょうか?


 世界の区切りはどのような形でも構わなかったはずです。

 例えばある人間の集まりを家族として呼び、その集合体を村、国とする形態ではなかったら?


 ドライアドは植物なので、父族、母族、子族と言う呼び方をしていても全くおかしくないはずです。彼女たち、あるいは彼らドライアドが見ている世界は、本当に私たちと同じものでしょうか。


 そこから考えてみれば、そこで譲れないものとは何でしょう?

 いちばん大切な価値のある何かとは?


 何故言葉を作る必要があるのか、わかってきたかと思います。


 世界の切り取り方、事象の「ふちどり方」が違えばその存在の目的や意志を示すことが出来ます。言葉の意味を新しく考えることが出来れば、現実の事象や物体の意味をより大事に考えられるということです。


 本格ファンタジーは、空想的な表現を通して、普遍的な真理や人間性を探求する試みであると言えます。 そのためには、エルフ語や魔法の言葉などの独自の言語や記号による世界の区別が必要なのです。


 つまり、本格ファンタジーは、「空想の言葉や概念で現実を再定義する」文学です。





 ●結び


  もちろん、以上のことはあくまで一つの見解であり、他にも様々な考え方や定義があることでしょう。


 ですがここで一旦筆を置くことにします。(もう深夜2時なので



 ※補遺※


 とても良いコメントを頂いたのでここでご紹介させていただきます。


ーーーコメントここからーーー


 興味深い研究ですが疑問があります。

 疑問点・洞察

 言語と記号論の役割: 記事は言語と記号論に大きな重点を置いていますが、これが本格ファンタジーにおいてどれほど重要なのか?


 現実世界との関連性: 本格ファンタジーが現実世界の問題や価値観にどのように対応するのか、そのメカニズムはどうなっているのか?


 普遍性と独自性のバランス: 本格ファンタジーが求める「多様性や独自性」と「包括性や普遍性」のバランスはどのように保たれるべきなのか?


ーーーコメントここまでーーー


ーーー作者によるコメントここからーーー


 ここまで書いた部分は後の資料にある通り

「作者の目的を持つ表現ならば芸術である」

 という命題に基づいて書かれています。この命題が偽になるパターンは作者の目的を持つ表現ながらも芸術ではないものとなります。


 そしてそれは、次のようなものが考えられます。


 ●広告やプロパガンダなどの説得的な文学/絵画の表現。これらは作者の目的を持って作られますが、一般的には芸術とはみなされない場合があります。


 ●科学や数学などの客観的な表現(論文)。これらは作者の目的を持って作られます。美しい数式などと言いますが、芸術とみなされない場合があります。


 ●日記や手紙などの個人的な表現。これらは作者の目的を持って作られますが、プリニウス書簡集やアンネの日記など、文学と見なされるものもありますが、多くの場合は芸術とは見なされない場合があります。


 つまり今回の定義で行っていることは「目的を持つ表現ならば芸術である」という命題に則し、現実の芸術に類するであろう事象のなかで「本格ファンタジー」と言う言葉でくくれるものが、一体どのような性質があり、どれを抜いたら『「芸術」であり、「本格ファンタジー」でなくなる本質』は何なのか。


 ということを、一連の議論、定義するという行為に求めています。


 以上です。よろしくお願いします。


ーーー作者によるコメントここまでーーー


 先にあげた3つの定義に対して議論を進めていきましょう。他にも色々やっているので、一旦どうするか考えさせてください。

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