緋い記憶
宵町いつか
緋い記憶
開かれたままの画集。
二人しか居ない美術室。
視界の端には絵を描いている一人の少女。
色彩を操り、真っ白なカンバスに世界を作る。そのときの集中している彼女の表情が、眼差しが好きだった。僕は彼女に見惚れてしまっていた。
今日も例外ではなく、スケッチブックに鉛筆を走らせるふりをして彼女を見ていた。彼女はそんな僕に気付く素振りを見せず、淡々とカンバスに色を付けていた。
時計が五時を指した。部活が終わるまであと三十分を切った。けれど彼女は筆を置かなかった。いつもなら置いているはずの時間だった。
「もう五時だよ」
僕が言うと、彼女はちらりと僕を見た。
「教えてくれてありがとう」
平坦な口調だった。彼女が絵描きではなかったら、僕は彼女のことを嫌いになりそうだった。それくらい感情の籠もっていないものだったのだ。感謝も籠もっていない、意味のない音。
それから彼女は二十分ほど描いて一段落したのか、パレットを片付け始めた。僕もそれに習い、スケッチブックを片付ける。鉛筆をキャップに仕舞い、スケッチブックをリュックに入れる。
彼女は学校の購買で売られていたパレットを洗っていた。長時間放置されていたから固まっていたのだろう。何度か指で擦っていた。
「よし」
落とされた言葉からは疲れにも似た感情がにじみ出ていた。けれどそれは声だけで、表情からは疲れは読み取れなかった。彼女はいつものように無表情だった。
「おつかれ」
「お疲れ様」
彼女が言葉を返し、バックを担ぐ。僕は中途半端に開かれた扉を閉め、電気を消した。彼女はカンバスを準備室に移動させていた。
片付けをすべて済ませ、美術室の鍵を閉める。
「じゃあ」
彼女はそう言ってそそくさと帰路につく。鍵を返すのはいつの間にか副部長である僕の仕事になっていた。少しは手伝ってくれても良いのに、と思いながら僕は職員室まで行く。
職員室にはまだ数人の教員が残っていて、残業という名前が付かない仕事をしていた。
職員室に籠もっているコーヒーの匂いがやけに不愉快に感じて、思わず顔をしかめる。家で入れるコーヒーとはどこか違う、もっと苦いなにかのように思えた。
「先生、お疲れ様です」
僕は美術顧問の先生に鍵を渡す。壮年の男性教員は鍵を受け取ると、コーヒーを一口飲み下した。
「ああ、ありがとうございます」
僕は会釈をして、職員室を出ようとすると、美術顧問に止められた。
「宮下さんとは仲良く出来てますか?」
「……そこそこに」
僕が正直に答えると、美術顧問は苦笑いを返し、「宮下さんと話しているのは君くらいなので、仲良くしてあげてください」と言った。
僕はその言葉に曖昧な返事を返して職員室から出た。
遅れて、僕も帰路に着いた。なんとなく、いつもと違う道から帰ろうと思って、わざと大回りをした。
二学期も中盤に入り、十月の文化祭まであと数日を切った。彼女と関わるのもあと少しになるだろう。文化祭が終われば自然と僕らは別れる。そんな気がしていた。共通点のない僕等にはそれがお似合いだった。
絵を描いている彼女は好きだ。ただ、絵を描いていない彼女は嫌いだ。
冷静になれば僕はそう思える。彼女を好きになる要素なんて何処にもない。顔も特段整っている訳ではないし、性格がとてつもなく良いわけではない。性格はどちらかと言えば悪い。クラスでは浮いているし、笑顔は見たことがない。
一度彼女から目を離せば、そう考えられるのに、絵を描いている彼女に焦点を合わせてしまうとどうにも彼女から目が離せなくなる。彼女に集中してしまう。
元々、僕は他の人が集中しない物事にこだわってしまう人間だったから今回もそれに似たなにかだと思っている。それにしか形容できないから。
一度、共通の友人に彼女のことについて相談したことがあった。絵を書いている彼女は好きだ、と。相談したソイツは中学の時のムードメーカー的存在で、誰彼構わず仲良くしていた。簡単に言えば馬鹿だ。ソイツから返ってきた返事は一言。
「本人だけには言ってあげるなよ」
だった。
中学で彼女と話していたのはソイツと僕くらいだったから、その言葉は信頼できた。だからこそ、彼女に向かって好きだとか嫌いだとかは一回も言っていない。彼女自身に関することでも、絵に関することでも、言っていない。言える立場でない。
自分でもなかなか性格が悪いということも理解していた。残酷な人間なんだろうな、と漠然と感じている。けれど仕方がない。こういう一面しか好きになれない人間なのだから。彼女がそれを認めてくれるかはわからないけれど。
踏切で立ち止まる。京阪本線だ。
踏切の向こう側に彼女は佇んでいた。誰かを待っているのか、電柱に背を預けていた。
遮断器が上がって、僕は彼女に近づく。彼女は僕を見て、軽く会釈をした。
「誰か待ってるの?」
僕が声を掛けると思っていなかったのだろう。彼女は目を見開いていた。
「……いや。電車の時間がまだあるから」
じゃあホームで待てばいいのに。
言葉を飲み込んで、僕は彼女の隣に立つ。なんとなくだった。
目の前には夕焼けがあった。仏徳山が赤く染まっている。
彼女がここで電車を待つ理由がわかった気がした。この風景を見ていたのだ。
「きれい」
僕が呟けば、彼女は肩を震わせる。
「私、この風景好きなの」
彼女はそう言ったきり、話さなくなった。景色に見惚れていたのだろう。彼女の方を見ていない僕には分からなかった。
「わかる。僕も、たった今好きになったよ」
僕の言葉には反応せず、彼女は無言だった。人間、好きな風景には我を忘れて見てしまうのだな、と思った。今更気がついたと言っても過言ではないだろう。
僕が絵を描いている彼女だけが好きなように。
彼女は夕焼けに染まった
きっと、そういうものなんだろう。
緋い記憶 宵町いつか @itsuka6012
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