第3話

 あの女がまた銀座の和光に現れた。

「渡辺さんは元気?」

 答える義理はないが、女の意に反していることを主張したかった。

「元気です」

「あら、意外と意気地無しなんですね」

 負けてなるものか。私は両足を踏みしめる。

「あなたなら、どうしますか?」

 女は、おでこを小突かれたような顔をする。上品な、だけど酷薄に笑う。

「今生の別れ」

「はい?」

「もう二度と会えないようにはしますよ。どう言う形であれ」

「私があなたと同じだと思うのですか?」

「ええ。渡辺さんの選んだ人ですから」

 黒渦が粘りを増す。女は見下すような会釈をしてその場を去る。

「ちょっと待って下さい」

 女がピタ、と止まる。振り返る。

「何か?」

「あなたは夫の何なんですか?」

「懇意にしていたと伝えましたが」

 ラインのやり取りが脳裏に浮かぶ。その懇意は、悪性の懇意だ。

「今ここで、私があなたと今生の別れをしてもいいんですよ?」

 女は薄く笑う。

「そんなことに意味はありません。あなたにだって分かっているでしょう? これは渡辺さんの問題だって」

 私は勢いだけはあるのに、言葉に詰まる。女は小さく息をつく。

「今度こそ本当にさようなら。健闘を祈ります」

 女は去って行き、私は立ちすくむ。立っている分だけ黒い渦が育つ。女が望んでいることと、私がしようとしていることは一致している。二人の女の重なるところが夫で、そして黒い渦なのだ。女に腹が立ってしょうがないのに、自分のしようとしていることの後押しをされたみたいで、それが女の利益のためだとは言え、力をもらったような気がしてしまう。そのことにまた黒が育つ。

 家に帰り、包丁を確認する。昨日も夕食を作った包丁だ。

 研ぐ。

 砥石に水をかけて、シャー、シャー、と刃を滑らせる。先のとんがっているところを一番入念にする。せめて、痛みを少なくなんて思わない。何度も刺すのだから刺しやすい方がいいと思っただけだ。

 研いだ証拠はしっかり隠して、夫の帰りを待つ。せっかく研いだのに、最初に夕食の支度に包丁を使う。青菜がよく切れる。息子は今日も夜遅いらしいから、この料理は私と夫のための料理だ。そうだ、最後に夫の言い分を聞いてもいいだろう。

 夫が帰って来た。

 部屋着に着替えてソファに座ったところで前に立つ。

「ねえ、浮気してない?」

「してないよ」

「誰かと懇意にし過ぎてない?」

「だから、してないって」

「携帯のロック、誰かの誕生日じゃない?」

「違うよ。……見たのか?」

 夫は身を固くする。

「見たわ。ひどいラインを見付けた。あれは浮気じゃないの?」

「あれは……。もう済んだことだ」

「済んだ!? 終わっていれば許されると思っているの!?」

「何で、携帯のロックの番号を知ってるんだよ」

「ある人が私に教えたのよ。その人の誕生日だって」

 夫は顔を黒くする。全身に力が入っている。

「そうか。そう言うことか。でもな、本当にもう済んだことなんだ」

「だから?」

「許して欲しい」

 夫はソファから立ち上がり、私の前で土下座した。

「この通りだ」

 土下座をすれば許されると思っている心性が滑稽だ。だが、私は真の計画のために嘘をつく。

「分かったわ。そこまでするなら水に流してあげる。でも、もう二度と浮気しちゃだめよ」

 夫は顔を上げる。その瞳には、全く許していない怒りの塊のような私が映ったはずだ。

「本当に?」

「怒っているわよ。でも、許す。いや、貸しね。いつか返してちょうだい」

「分かった。約束する」

 若いときは喧嘩の後はセックスをしたが、そんなことはもう今はしない。したくもない。

 夫はテレビをつけずに、静かにソファに座っていた。そのうちに風呂に入り、その後もテレビをつけないのは反省の表明のつもりなのだろう。別に観てもいいのに。

 そして夜が来る。

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