第2話

 私は包丁を持って夫の部屋に、静かに踏み込んだ。

 間接照明の要領で、ドアを四分の一開けて薄明かりにして、夫の側に立った。陰影だけの夫の表情は分からない。今から殺すのだ。

 夫はずっと私に優しかった。困っているときは助けてくれた。息子にもいい父親だった。

 それなのに裏切りをしていた。

 だとしても、私の夫であることに変わりはない。

 急に涙が込み上げて来る。夫は眠っている。

 涙を垂らす訳にはいかない。

 私は後ずさりして、部屋の外に出たらドアを閉める。へたり込みそうになるのを耐えて、キッチンへ向かう。包丁をラックに戻す。この包丁はもう料理のためだけの包丁じゃなくなった。私も同じだ。

 鼓動が速がけで、耳の奥をガンガン鳴らす。キッチンの床に座って、震える手を見る。

 私には殺せないのかも知れない。

 でも、殺さなくてはならない。

 それから、包丁を持って夫の部屋に行き、後ずさりしてキッチンに逃げるのが日課になった。夫はよく寝ていて、一度も私に気付いていない。日中の私も、夫もこれまでと同じだし、夫は私の変化を察知出来ていない。それは、私への関心の薄さから来るものかも知れない。あの女のことを愛しているのだ。だが、私のことも愛しているようには見える。そんなことが可能なのだろうか。

 だから訊いてみた。以前より私が大胆になっている。

「私のこと愛してる?」

「そりゃあ、愛してるけど?」

 夫は少し照れた顔をして言った。その表情から私は、夫は真実を言っていると判断した。

 今日も包丁を持って夫の部屋に行く。

 そっとドアを開ける。

 光が部分的に入る。影ばかりの部屋。

 もし本当にメッタ刺しにするなら、かなり接近しなくてはならない。私はこれまでそこまでの接近をしていない。だが、日に日に半歩ずつ前には出ている。もうすぐ、刺せる距離になる。

 夫が目を開けた。

 私は咄嗟に包丁を後ろに隠す。

「何してんの?」

「いや、寝顔を見に来てた」

「ふーん。変なの。まぁいいや、眩しいからドア閉めて」

「うん。おやすみ」

 私の中の黒は十分に大きいのに、実行に移せない。

 私も夫に想いがあるのだろう。

 次に部屋に入るときは決行しなくてはならない。もう疑われてしまった。

 私は夫の部屋に入らなくなった。包丁も持ち歩かない。

 その日が来るまで隠し通さなくてはならない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る