黒い渦

真花

第1話

 今夜、夫を殺そうと決めた。

 ……メッタ刺しがいい。首を絞めるのじゃ失敗があるし、私の想いを表現したい。

 私の決意なんて知らずに、夫は無防備に寝ている。どうしてここが安全だと思えるのだろう。寝顔を見るのも今日が最後かと思うと、胸の中に少しだけ感傷が生まれて、私をくすぐる。だが、そんなことじゃ私は変わらない。

 あなたが二十年間私を裏切り続けていたのだから、報いを受けるべきだ。二十年、新婚のときからだ。信じられないが、事実なのだ。

 あの女は突然現れた。

渡辺わたなべさんの奥さんですよね?」

 それは銀座の和光でのことだった。私は混乱して、そうです、と答えた。女は私よりずっと年齢が上のようだった。品のいい服装、明らかに金を持っている。

「渡辺さんと、懇意にさせて頂いています。それは、とっても、懇意です」

「どういうことですか?」

「二十年前から、私達は懇意にしているんですよ。それがどれくらいかなんて、言えませんけど」

 私の腹の底に黒いものが溜まり始めた。

「そんなこと信じません」

「私、八月十二日生まれなんです。渡辺さんの携帯のロック、この番号で開きますから。是非試してみて下さい」

 女は勝ち誇ったような笑みを浮かべて、私の前を去って行った。私は足を動かすことが出来なかった。

 パートナーの携帯を見るなんて、人間としてやってはいけない行為だ。だから、一度も触れたこともなかった。だが、夫が風呂に入っている間に、私は無造作に置いてある夫の携帯を手に取ってしまった。

『0812』

 半信半疑で入れた番号で、ロックが解除された。私の腹の中の黒いものが一回り成長した。

 そこからは止まらなかった。夫は特定の人物に頻繁にラインのやり取りをしていた。

『会いたい』

『水曜日になったら会えるよ。それまで想いを溜めておいて』

『待てないけど、待つ。楽しみにしてる』

 水曜日はいつも夫が家を不在にする日だ。

『もう二十年になるのね』

『そうだね。人生の大事なところの全部だね』

『いつまでも続くといいな』

『続くよ』

 そんなに前からなのか。

 黒いものは渦になり、腹から溢れそうになる。

 日付を見ると二週間前で止まっている。そこで何かあって、女は私に会いに来たのだろうか。

 夫が風呂を出る音がして、慌てて携帯を元に戻す。夫が裸で居間に出て来る。

「どうした? 何か変だぞ、お前」

「そうかな」

「体調悪いんじゃないのか?」

「そうかも知れない。私もさっさとお風呂入っちゃうね」

 湯船の中で情報を整理しようとしても、ただ一つの答えしか導き出せない。

 あの女と夫は二十年間「懇意」にしていた。すなわち、私を裏切り続けていた。話し合う余地なんてない。

 黒いものが体に溢れる。もう私を覆っている。

 風呂から上がって、テレビを観る夫を後ろから観察する。のどかに弛緩した顔をしている。後ろにいる私の気持ちなんて考えたこともないみたいだ。きっと、一度も私の気持ちを考えたことがないから、あんなことが出来るのだ。

 今夜決行しよう。メッタ刺しがいい。

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