漂白
朝凪千代
汚れた雑巾は二度と白に戻らない。
当たり前のことを今になって思い出す。
灰色になった雑巾を床に放り投げる。べちょ、とよわっちい音を立てた。なぜ引っ越し前日に掃除しようと思ったのか。
ダンボールが連なる部屋を改めて見回す。
意外と広かったんだな。
大学から近い、という理由だけで選んだあの日はまだ子供だった。
今はもう、成人したけれど、どこが大人になったのか分からない。
絵本のような夕陽が部屋に落ちる。
乾燥が気になる肌も無機質なダンボールも輪郭が淡くなっていく。
アパートの目の前を流れる川。
スパンコールを散らしたような水面に思わず目を細めた。
見慣れた景色にいちいち反応してしまう。
私は明日この街を出ていく。
第一志望の大学を落ちて、行きたくもない大学に来て、自分を、環境を、ありとあらゆるものを呪っていた。何も期待していなかったし、私はこんなところでいる人間じゃないと根拠もなく思っていた。物事を斜めから眺め、合コンだなんだと騒ぐ同級生を毛嫌いした。
子供だったなあ。
今も子供なのかなあ。
川沿いを歩く一人の男がいた。筋の通った鼻と細身が印象的だ。チェーンピアスが目立つ。
後ろから走り寄る女がいる。カールのかかった茶色の髪と膝上の黒スカート。腕を絡め、そのまま駅の方へ歩いていった。
彼らが見えなくなるまで目を離せなかった。
まだ子供だなあ。
出会ったのはこの川だった。
ただの一目惚れだ。
次に見たのは大学のキャンパス内。
何に惹かれたのだろう。考えるよりも先に行動した。連絡先を交換して、毎日挨拶できるように早起きして。小学生かよ。
ピンクのフィルター越しに見るあいつは自分にはない全てを持っていた。遊び人だよ、と言われても関係ない。
少しずつ街が夜にのまれていく。人工の光があちこちで主張をはじめ、西の山に太陽が隠れ、山の端の赤色を残し、青のインクを落としたようなグランデーションの空が広がる。そういえば、ここは空が広い。高いビルがなく、雲を大きく感じる。
最後のぼやぼやとした空を横目に、体育座りになって顔をうずめる。
来た時は嫌悪だった。見るもの全てに、───道端の石も、意味のわからない方言も、世間知らずに見えた同級生も、店が少ない駅前も───吐き気がした。
なのに今は。
胸のどこかが破れて、隙間風が吹く。
きっとあいつのせいだ。
突然、スマホが震えた。暗闇に沈んだ部屋にブルーライトが光の道となる。あいつの名前が表示される。
たっぷりと深呼吸をし、五コール目に応答ボタンを押す。
『……もしもし。今、一人?』
「そうだけど」
いつもの声に心音が大きくなる。
『アパート?』
「うん」
『行っていい? 色々買っていくから』
「いいけど。一緒にいた人は?」
『は?』
「川沿い歩いてたじゃん」
『ストーカー?』
「目の前、アパートでしょ」
『うわ、恥ずかしいわ。……最近できた人。駅まで一緒に行ってただけ』
「へー……。部屋、なんにもないよ。テーブルすら。あと、ゴミは持って帰って」
『おっけー。すぐ行く』
電話を切ると静寂が耳につく。数えきれないほど部屋に招いているし、すっぴんだって知っている。
それでも最後に会える夜だと思うと。
髪の毛ぐらいは気にしてしまう。
「よ」
「やほ」
葵はぴったり十五分後にやってきた。手に缶ビールやらおつまみやらが入ったビニール袋をさげて。
「ほんとに何にもないな。段ボールだけやん」
「でしょ。床でいい? 何買ってきてくれたの」
「ビール、チーズ、サラミ、ポテチ。あとポテサラ。どうよ」
「最高」
一つずつ床に並べていく。私の好きなものたちを。
「実家に戻るん?」
「うん。あっちの方が親も喜ぶ」
「ふーん」
「葵は院に行くって聞いたよ」
「そのつもり」
葵がビール缶を手に取り、音を立てて開けた。
「明るいかもしれん未来に乾杯」
何それ、と笑いながら缶をぶつける。
「酔ったやろ」
「ん、そんなことないし」
「まだ一本しか飲んでないやん」
「うるさ」
そういう葵は三本目の缶を手にとる。
「お前はさ、何がしたかったん。わざわざこんな地方に来て」
指についたポテチの塩をなめる。しょっぱい。
「なに、急に。別に。どうにでもなれって感じ。前進しないと怖かっただけだよ」
それっぽい言葉だ。人工甘味料のような言葉。
葵は黙ってビールを口に運ぶ。
「未練は?」
「ないよ」
即答。我ながら悪くない答え方。
チーズの銀紙をペリペリ剥がす。葵を直視できない。
カーテンのない窓から冷たい月光が差し込む。
「嘘つけ」
ドスのきいた葵の言葉が空気を刺した。
「未練タラタラやろ」
茶色がかった瞳が真っ直ぐ私を見る。
綺麗だなあ。整った眉も、光の入った目も、筋の通った鼻も、薄い唇も。
「だから、まだココにいるんやろ」
誰のせいだよ。
「うるさい……」
チーズを口に放り込む。味がしない。
「親が心配しよるよ」
「葵に何がわかるの……」
目を伏せる。これ以上見つめられると体の底から何かあふれてきそうだった。
「はよ会いに行ってあげな」
「むり……」
「なんで」
言えるか。
私が黙ると葵も黙った。
顔を見たくなくて膝に顔を沈める。
葵がビールを飲む音が聞こえる。それから自分の呼吸。
早くいかなくてはいけない。
でも、もっと、ココにいたい。
理想と現実はいつまでも鬼ごっこをしている。
「葵はさ、好きな人と結ばれるためにどんなことする?」
頭を落としたまま尋ねる。息が臭い。
「連絡先の交換とか? んで、我慢できんからすぐに伝える」
「そっか」
「なに?」
「人類が七十五億もいるとね、一人ぐらいなにもできない奴がいるってこと。後ろからついて行ったり、ドジなふりしてコーヒーこぼして話す機会をつかもうとしたり、とりたくもない講義をとったり、学食の同じメニューを食べてみたり、こっそり写真を撮ったり、目線だけでも合わせようとしたり」
今、葵はどんな顔をしているだろうか。
「でね、いざ知り合うとね、自分を純粋無垢に見せたくて今までしてきたことを隠そうとするの。嫌われたくないから。離れたくないから。二度と白には戻れないのに」
顔を上げなくては。謝らなくては。
「だから、まだここにいるんだよ」
光に慣れて、葵の顔を見ようとして、見えなくて、自分が泣いていることに気づいた。
叶わないのに。叶わないけど。叶わないから。
「葵が、好き。ずっと前から」
謝罪より先に出てきた言葉に呆れながらも、私はこういうヤツだったと安心する。
「うん」
夏の太陽のように、春の風のように、葵は笑った。
葵の唇にキスを落とす。
かすかにアルコールの味がした。
私は、やっと逝った。
**
陽菜を初めて見たのは、大学の講義でだった。
試験が難しいことで有名な講義だった。つまり、情報収集に失敗した人が集まる講義だと思った。
名前に似合わず、思い詰めたように暗い顔をしていた。目があってもすぐにそらされる。
もう少し笑えばかわいいのに、と思った。
次に会ったのは、というか見たのは、大通りでだった。なんとなく後ろを振り返るといた。目が合うと今度はふにゃりと笑った。やればできるやん、と思った。
次は、コーヒーをこぼされた時だ。これは、まあ、なかなか強烈だった。気に入っていた服で、しかも白で、陽菜はそれはもう懇切丁寧に謝ってくれたし、クリーニング代も出してくれた。けれど結局シミは取れなかった。
なんということはない。自然と一緒にいる機会が増えた。
それらの日々の中、陽菜が自分のことをどう思っていたのか。気づいていなかったといえば嘘になる。ただ、なんとなく、そういう話題にならないように努めた。私は恋人ができたばかりだったし、後のことを考えると最初から何もない方がいいと思ったし、もう少し早ければとも思った。
最悪だ。
陽菜は倒れていた。
血管の詰まりだかなんだか知らないが、つまり突然世界から消えてしまった。
葬式には行かなかった。行けなかった。祖父も祖母も元気で、触れたことがない世界にどう接していいかわからなかった。
無味無臭の日々が流れた。
ただもう一度話がしたい。
四十九日が終わろうとする時、陽菜のアパートの前を通り過ぎると、視線を感じた。それは、幾度となく感じた、そう、あの大通りの時のような。
まさか。
振り返っても、もちろん誰もいない。
おそるおそる懐かしい名前を押して、電話をかけてみる。
まさか。
ガチャリ。
「……もしもし。今、一人?」
『そうだけど』
いつもの声に心音が大きくなる。
「アパート?」
『うん』
「行っていい? 色々買っていくから」
『いいけど。一緒にいた人は?』
「は?」
『川沿い歩いてたじゃん』
「ストーカー?」
『目の前、アパートでしょ』
「恥ずかしいわ。……最近できた人。駅まで一緒に行ってただけ」
『へー……。部屋、なんにもないよ。テーブルすら。あと、ゴミは持って帰って』
「おっけー。すぐ行く」
陽菜の声だ。陽菜だ。間違いない。どうして。
一旦、家に戻ってあのシミのシャツに着替えた。
なにが陽菜を繋ぎ止めたのだろう。
分かりたくはなかった。
けれど、少しでも陽菜と関わりのあるものを。
急いでコンビニに向かい、陽菜の好きなものを買う。
アパートのドアの前では流石に緊張が足先から侵食してきた。
今から誰と会うのだ。幽霊か。
いや、幽霊でも、陽菜は陽菜だ。
震える指でインターホンを押した───。
*
陽菜は消えた。正真正銘、いなくなった。
空き缶と食べかけのつまみたちをレジ袋に入れる。
空き缶を潰すたびに鼻がツンとした。
一緒に駅に向かったのは間違いなく私の兄だ。
今日ついた嘘に陽菜は気づいただろうか。
しばらくぼーっと部屋を見まわした。
一枚の雑巾が落ちていることに気がついた。
薄く灰色がかったそれを二つ折りにして、持って帰るか悩んで、やめた。
コーヒー色のシャツは二度と白には戻らない。当たり前のことを今になって思い出す。
それは、とても、素晴らしいことかもしれない。
あの子のアルコールのキスと同じくらいに。
漂白 朝凪千代 @tiizu
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