第207話 宇垣
俺は、一条さんを家に送ってから、自宅へ向かう。
今日はいろんなことが起きすぎたな。映画デートに、愛さんのお母さんのお墓参り。少しずつ、お互いの心が近づいてきている。
それが嬉しかったし、絶対に言いたくないことを教えてくれたことが本当にありがたかった。そして、彼女が味わった絶望の深さを知る。それだけで、胸が苦しくなる。おそらく、自分が味わった以上の絶望だろう。
母親の事故死。それが自分を守ってくれたことに起因するものだからこその罪悪感。そして、母親の死を悪用された嫌がらせの連続。父親との離別。
想像するだけで心が壊れそうになるくらいだ。
「本当にすごいな」
ずっとそれを背負いながら、彼女は努力をやめなかった。
都内の私立中学からうちの高校に入学試験を受けて、首席で合格。入学してからも、その成績を維持し続けているし、スポーツだって万能と評判。いったいどれだけ努力したら……
彼女は、どんなに辛いことがあっても、前に進むことをやめなかったんだと思う。
頑張りすぎたからこそ、ボロボロになってあの屋上にいた。
それなのに……
「あんなに一生懸命になって、俺を助けてくれた」
自分が絶望のどん底にいる時に、手を差し伸べてくれた。
一生かかっても返せないくらいのものをもらってしまった。
もうつながった手を離すつもりはない。
離すわけにはいかない。
家の近くの公園のベンチに座る。気持ちを落ち着かせるために。
そして、事故のことを調べる。いくつものネットニュースの記事がヒットした。
2年前に起きた事故は、記憶に残っている以上に凄惨なものだった。
犠牲者の数は、俺が思っていた以上に多かった。そして、中学生の奇跡の生還。犠牲者の名前は、新聞に書かれていて、宇垣瞳さんの名前もそこにあった。これが原因で、彼女は嫌がらせを受けるようになったと思うとやるせない気分になる。他の被害者の欄に知っている名前はなかった。事故の原因はトンネルの老朽化。インフラ整備における問題点が記事の後半に集中している。
「やっぱり、そうか」
心の整理を終えて、俺は帰路につく。
※
少し遅くなってしまった。もう、キッチン青野のラストオーダーの時間だ。
「ただいま」
一応、店の入り口を開けて、母さんたちにあいさつする。
珍しくお客さんは、常連の泉さん家族だけだった。
「あっ、英治おにいちゃんだ」
泉家は、父さんの代からの常連さんで、小学1年生のお孫さんを連れてきてくれていたみたいだ。
「舞ちゃん、久しぶり。今日は、誕生日のお祝いかな?」
「うん! お子様ランチ食べたかったからおじいちゃんたちに連れてきてもらったの」
泉家は、記念日で家族で来てくれる。
「英治君も立派になって。この前、人助けで表彰されたんだって? おばさんも嬉しいわ」
「うんうん」
こういう感じで飾らない常連さんたちだから、俺も会えて嬉しい。
小さいころ、よくレストランに顔を出していたから、常連さんたちには子供や孫のようにかわいがってもらっていた。
母さんは奥から顔を出して、からかうように聞く。
暑いからピッチャーから水をもらって、口に含んだ。
「おかえり、愛ちゃんとのデート楽しかった?」
「うん。楽しかったよ」
「なら、よかったわ。今日は帰ってこないかと思っていたのに」
「なっ……」
思わず水を吹き出しそうになる。
泉さんたちに聞かれたら……
思わず振り返るが、みんなケーキに夢中で聞こえていなかったみたいだ。
「冗談よ。でも、愛ちゃんのことは大切にしないとだめよ。あんなにいい子、滅多にいないんだからね」
「うん、わかっている」
そう言うと、母さんは嬉しそうに笑う。そして、また厨房に戻ろうとした。
「母さん、一つだけ聞いてもいい?」
不思議そうな顔で振り返る母さんは「なによ、急に改まって」と笑う。
「最近、宇垣のおじさん、店に来ないよね?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます