第202話 幸せと不幸の境界線

―青野英治視点―


 一条さんは、車に戻って安心したのか、俺の手を握って安心したように眠ってしまう。無理もないだろう。頑張りすぎたんだ。


「ありがとうございます、青野様」

 運転手の黒井さんが突然、口を開いた。


「一条愛さんって、学校では天使とかアイドルとか言われているんですよ。儚げで美人で、気品があって。でも、こんなか弱い身体で、あんなに重いものを背負い続けてきたんですよね。普通の人ならすりきれてしまうはずなのに」

 彼女の小さな手は温かった。


「それは、あなたのおかげでもあるんですよ。お嬢様は、あなたと出会った日から明るくなった。それまではがんばって、理想の一条愛という少女を演じ続けていたんだと思います。それが少しずつ自然体になっていった。奥様を亡くされる前のお嬢様が帰ってきてくれた。使用人として、出過ぎたことを言ってしまうと、それが嬉しいのです。お嬢様は、やっと幸せな世界に戻ることができるはずです。あなたのおかげです」

 黒井さんは、普段は無口であまりしゃべったことはなかった。一条さんを迎えに来てくれる時に軽く挨拶するくらい。でも、こんなに彼女を思いやってくれていたんだと思う。


「ありがとうございます。でも、それは黒井さんたちの支えがなければ。一条……愛さんの亡くなったお母さんたちもですよ。みんなのおかげで愛さんは、人を思いやることができるようになった。みんなが支えたからこそ愛さんはここまで頑張れた。愛さんがあんなにやさしい女の子だからこそ、どん底にいた俺を助けてくれたんだと思います。すいません、高校生の癖に、ちょっと上から目線で」


「そんなことないですよ。我々は、大人としての責務を果たせていなかった。それができた青野様を子ども扱いなどできません。これからもお嬢様をよろしくお願いいたします」

 そして、彼はまた無言に戻ってしまう。先ほどから、一条さんの手は何度も力が込められていた。目は閉じているけど、うっすらと涙が浮かんでいた。


 聞こえていたんだ。でも、指摘するのは野暮。代わりに、強く力を込めて彼女の手を握る。彼女の手が、冷たくならないように。


 ※


―一条愛視点―


 思わずウトウトしながら、先輩と黒井の会話を聞いてしまった。

 しまったと思う。聞いてはいけないことを聞いてしまった。黒井は、私が寝ていると思ったから、先輩に伝えたかったんだ。


 だから、私が聞いてしまうのは何か違う。だから、必死に目を閉じる。


 二人から聞こえてくるのは、私を思いやってくれている言葉。

 黒井も壊れた私をずっと支えてくれた。わかっていたと思っていた。支えてくれた人たちには感謝しかない。でも、あの日、あの屋上で間違いを犯してしまったら。


 きっと、黒井にも取り返しのつかないくらいの傷をつけてしまっただろう。

 自分は馬鹿だと思う。


「(ありがとう先輩、あの日、私を見つけてくれて)」

 強く彼の手を握る。わかっているとばかりに強く握り返してくれる。


「(ずるいなぁ、本当に。でも、幸せってこういうことなのかしれない)」

 ゆっくりと、彼の手のぬくもりが伝わってくる。すべてを理解してくれた先輩の横で、数年ぶりに私は優しい眠りについた。


 ※


―天田美雪視点―


 何もしなくても、お腹はすく。

 もう冷蔵庫には何もなかった。重い足で、駅前のスーパーで必要最低限の栄養を補給できるおにぎりとパンを買う。なんで、私は生きているんだろう。


 そう思いながら、ゾンビのようにゆっくり歩く。

 少し前の道で、黒塗りの高級車が止まった。中から見知った男の子が出てきた。


「英治?」

 思わず幻影でも見ているかのように、彼は楽しそうに笑っている。やはり、一条愛も一緒だ。震えが止まらない。


 なんで、私は英治の隣にいないんだろう。

 どうして、あの笑顔を私に向けてくれないんだろう。


 そして、ふたりは幸せそうに手をつないでいた。

 声をかけることすら許されない。そんな神聖な場所を見せつけられてしまった。


 おかしい。私の裏切りはもっとひどかったのに。

 英治は、ただ新しい恋人と一緒に仲良く歩いているだけ。ただ、幸せな日常を送っているだけ。


 裏切られたわけでもない。でも、この絶望感と喪失感に身体が震える。

 もう一人の私が冷静に自分にとどめを刺す。


「あなたが英治と別れたから、二人は幸せになれたんだね。英治が、浮気してえん罪までなすりつけてしまう私にひっかからなくてよかったよね。私が英治と別れたおかげでみんな幸せになれた。なに絶望してんの? あなたがやったことに比べたら……それも、ふたりはただ歩いているだけ。それを咎める権利、私にあるわけないでしょ」


 私は逃げるようにその場を後にした。

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