第201話 本当の自分

―一条愛視点―


 ずっと不安だった。

 図らずも先輩に嘘をつき続けてしまったこと。

 それも本名という一番大事な情報だったのに。


 それに……

 絶対に大丈夫だという安心はあるはずなのに……


 母のことを話すのが怖かった。

 

 肉親であるはずの父すら、私から離れてしまった。先輩ももしかしたら、そうなってしまうんじゃないかとどうしようもなく怖かった。


 母が亡くなって、父とはほとんど会うことはなくなった。

 父の秘書から、嫌がらせ防止のために、高校からは進学と母の旧姓を使うように言われた。こんな大事なことを、人づてにしか伝えようとしない。


「お前は、いらない子供だ」

 そう言われてしまったかのような絶望感。あの温かい場所が消えてしまったという喪失感。


 私は、父の秘書に「わかりました」と伝えて、都内の私立中学から千葉県内の公立高校に進学し、一人暮らしを始めた。


 環境が変われば、何か心境の変化があるかもしれない。それにここは、父と母が生まれ育った場所だ。


 もしかしたら、私に救いがあるのかもしれない。そんな淡い希望を抱いていた。


 でも、この環境にも救いはなかった。


「結局、私の容姿や噂されている家柄だけで、みんなちやほやしてくる。きちんと話したこともない人と、付き合うわけないじゃない」

 ただでさえ、嫌がらせをされて人間不信になっていた。他人への警戒心が強くなっているのに、見ず知らずの人に話しかけられるのは苦痛が増えるだけ。


 学校の授業内容も、すでに中学の時に勉強した内容が繰り返されるだけ。

 唯一の楽しみは、家に帰ってからの一人の時間で、読書や映画を見て、ただ、時間を過ぎるのを待っていただけ。


 天田さんと偶然出会ったとき、彼女を映画の中のゾンビのように見えた。

 たぶん、先輩と出会う前の私も同じような姿だったんだと思う。


 孤独は、夏休みに深まる。

 母が生きていた時は、家族で旅行したりしていた楽しい思い出が詰まっていた夏休み。私は、ひとりで家にこもって過ごした。もしかしたら、父から連絡が来るかもしれない。


 スマホをずっと近くに置いておいても、それは鳴ることもなかった。

 ずっと、ずっと、待っていたのに。


 夏休みが進めば進むほど、心は冷たくなっていく。目が覚めたら、気が付かないうちに、泣いていたことが何度もあった。


 もう、自分は限界だと悟る。

 そんな時、青野英治のことを知った。付き合っていた女性に乱暴したという噂が独り歩きしている感じだった。


 でも、ただのうわさだけしか流れてこない。証拠とされた写真も、誰かわからない女性の腕にあざがあるだけ。ネットにいくらでも転がっているような写真だし。


 結局、こういう風に人間は悪意に満ちている。

 そう結論が出たところで、すべてを終わらせたくなった。


 そして、私は学校の屋上に向かった。鍵が壊れているから、特別な操作をすれば、開いてしまう。一人になりたかった時に利用していたから、簡単に開いた。


 やっと母に会える。そう思っていた絶望の旅路の先に、私は希望に出会えた。


 ※


 すべてを伝えた後で、先輩の目からは涙がこぼれていた。


「せんぱい? どうして、あなたが泣いているんですか?」

 理由なんてわかっているのに、聞いてしまった。

 先輩の優しさを確認するために。


「大事な人が、他人からそんな扱いを受けていたと知って、怒らない人がいると思うか」

 ずっと聞きたかった言葉だ。寄り添ってくれる言葉。不思議と怖くなかった。


「優しいですね、本当に。だからこそ、謝らせてください。私は、あなたにずっと嘘をついてきました。私は、"一条"愛じゃないんです。一条は、母の旧姓で」

 もうひとつの秘密を伝える。


「だいじょうぶだよ、そんなことで、俺が好きな人は変わらない」

 そう力強く断言してくれる彼のことをたまらなく愛おしいと思う。

 彼と出会えて本当に良かった。あの屋上で、起きた奇跡に涙が出るほど感謝する。


 止まらなくなる涙を抑えるために、彼の肩を借りた。今日、何度目だろう。

 

「俺は、そんなに褒められた生き方はしてこなかったと思うけど、あの日……あの屋上で、一条愛を助けることができたことだけは、誇りに思っている」

 もうずるいな。どうして、そんなに言ってほしい言葉を知っているんだろうな。


「私も、あなたと出会えてよかった。ずっと、ずっと、全部伝えることができる人に会いたかったから。ねぇ、英治先輩? もうひとつ、わがまま言ってもいいですか」


「うん」


「できれば、これからは名前で呼んでくれませんか? 私は一条愛であって、一条愛じゃないから」

 彼はうなずいた。

 そして、涙で潤む私を正面に見ながら、誠実そうな声で願いをかなえてくれる。


「これからもよろしくね、愛さん」

 そのまま時が止まればいいのに。そう願いながら、私は彼に強く抱き着いた。

 私を守ってくれた母に、英治先輩をしっかり紹介しようと思う。


 お母さん、大事な人をやっと見つけたよ。

 そう伝えるために。

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