第200話 一条愛

 彼女はぽつぽつと自分のことを語ってくれる。


「私の親は、俗にいう政略結婚だったんです。有力な新興財閥出身である父と、名家出身の母。お互いの家にも価値のある結婚だった。でも、二人は幼馴染でもあったんです。母の話を聞くと、たぶんどちらも初恋の相手だったんでしょうね。だから、政略結婚といっても、お互いに幸せな結婚だったんだと思います。父を語る母は、いつも恋をする少女のような顔になっていましたから」

 淡々と、複雑な気持ちをこめて、言葉が紡がれている。


「私も二人に愛されて育ちました。そこは否定もできません。前にも話しましたよね。都内の名門私立の学校に通っていたって。私が勉学やスポーツを頑張れば、頑張るほど、二人は褒めてくれました。父は仕事で忙しくて、あまり家にはいなかったけど……少しでも家族の時間を作ってくれるような優しい人でした」

 普通に考えれば、上流階級の幸せな家庭だろうな。

 俺は、財閥とか名家とかはフィクションの中の話でしかない。

 だから、具体的なイメージがつかない。でも、その幸せな家庭が何かの事件のせいで崩壊したというのはわかる。それは、とても残酷な事件だったんだろう。


「そんな幸せだった日々は、2年前に終わりを告げました。……何の予兆もなく、突然……」

 彼女の口調は、さらに重くなった。


「一条さん。無理はしなくても……」

 あまりにも辛そうな彼女の様子に思わず声をかけてしまった。


「ありがとうございます。もうすぐ、目的地です。続きは、歩きながら話しますね。たぶん、外の空気を吸えばよくなりますから」

 かなり無理をしているように見える。

 車は海の近くに止まった。俺は、彼女よりも先に車を出て、手を差し伸べた。

 やはり、思った以上に顔色が悪い。ただでさえ色白な肌が、病的なまでに白くなっていた。


「ありがとうございます」

 彼女は優しく手を握りかえした。


「ここから遠いの?」

 あまり無理をさせたくない。思わず聞いてしまった。


「あと、10分くらいです。あの坂を上がれば」


「きつくなったら言ってね」

 いざとなれば、抱きかかえることもできる。

 そういうニュアンスを込めて言ってみたが、彼女にも伝わったみたいだ。少しクスリと笑った。


「はい。頼りにしてますね」

 俺たちはゆっくり歩き始める。一条さんの体調を考えて、いつもよりゆっくり歩く。


「2年前の夏。私と母が乗った車は、事故にあいました。トンネルの崩落事故。たぶん、ニュースでも報道されていましたよね」

 

「……」

 そのニュースは覚えている。

 かなり大きな事故だった。何人も死者が出たはずだ。父さんの知り合いも事故に巻き込まれたと聞いた。

 

「車の中にいたはずの私たちは、いつの間にか外に投げ出されていました。一瞬、気絶していたのかもしれません。前後で記憶があやふやで。たぶん、母が守ってくれていたんですね。目が覚めると、私は母に抱きかかえられていた。よかった、ケガはないと母は一番に聞いてくれました」

 彼女は伏し目がちにゆっくり言葉を選ぶ。


「良かったと思った私は、すぐに絶望しました。私を守ってくれた母の下半身には、がれきの山がありましたから。かなりの出血も……」

 聞いているこちらの方が苦しくなる。


「私は泣き叫んで、誰かに助けを求めました。母は、もう覚悟できていたんでしょうね。一番辛いはずなのに、私を安心させようと大丈夫と言ってくれていました。母の顔は見る見るうちに血の気を失っていきました。私は徐々に冷たくなっていく母の手を握ることしかできなかった」

 彼女の足はぴたりと止まってしまった。

 これ以上は無理だ。一度引き返そう。そう言おうと思った瞬間、柔らかな感触に包まれる。甘くやわらかな感触が伝わる。彼女は、俺の肩で泣いていた。


「ごめんなさい。少しだけこのままで」

 彼女が背負わされているものは重すぎる。

 そして、あまりにも残酷だ。


「大丈夫だよ。ゆっくり深呼吸して。俺はずっとここにいるから」

 彼女の呼吸が整うまで、ずっと身体を預けていた。


 ※


「ありがとうございます、落ち着きました」

 彼女は、ふわりと離れる。いつものように無理をして笑っていた。


「一条さん、一度引き返したほうが……」

 俺の申し出に、彼女は首を横に振る。


「もう少しですから、大丈夫です」

 彼女は再びゆっくり歩き始めた。


「母を失って、私の生活は激変しました。まず、父が変わってしまった。母を失った喪失感からか、仕事に没頭するようになって、ほとんど家に帰ってこなくなりました。まるで、人をモノのように扱うような冷たさを感じるようになりました」

 母だけでなく父親まで……まだ、中学生の女の子にとってどれだけ辛いことだろう。想像することもできない。


「あと、先輩に言うべきことじゃないかもしれませんが……私も、あの事故をきっかけに、嫌がらせが始まったんです。もともと、私は目立つ存在だったから、やっかみがあったのかもしれません」


「許せないな」

 思わず言葉がもれてしまう。ただでさえ、耐えがない苦痛を受けているのに。

 それを上塗りするように。


「私は、奇跡の生還と取り上げられてしまいましたからね。有名になってしまったこともあって。クラスメイトは表面上はいつも通りなんですけど。影では、母親を犠牲にしてまで生き残った薄情な鬼の子って言いふらされていました。酷いときは、スマホのほうに非通知の電話が来て、誰かが母の真似をして言うんですよ。苦しいよ、助けて、みたいな」

 絶句して、思わず立ち尽くす。


「あの日、母と一緒に死んでしまえばよかった。母が必死に助けてくれたのに、裏切るような感情を持ってしまう自分に自己嫌悪していました。だから、あの日、私は屋上にいた。すべてを失った絶望感が、少しずつ大きくなって。思わず、あの場所に行ってしまったんだと思います」


 今度はこちらが彼女に抱き着いてしまった。

 

「せんぱい? どうして、あなたが泣いているんですか?」

 泣くなというのが無理だと思う。


「大事な人が、他人からそんな扱いを受けていたと知って、怒らない人がいると思うか」


「優しいですね、本当に。だからこそ、謝らせてください。私は、あなたにずっと嘘をついてきました。私は、"一条"愛じゃないんです。一条は、母の旧姓で」

 俺たちはゆっくりと歩き始めた。

 おそらく、附属高校に進学しなかったのも、自分の素性を隠すためだろう。

 別の学校に進学し、母親の旧姓を名乗る。そうでもしなければ、自分を守ることもできなかったのだと思う。


「だいじょうぶだよ、そんなことで、俺が好きな人は変わらない」

 坂を上った先は霊園だった。

 立派なお墓の前に立つ。


「母は、海や山が好きだったんです。だから、ここにいるんですよ」

 墓標には、一人の女性の名前が刻まれている。


 宇垣ひとみと。

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