第177話 教師の覚悟

―高柳視点―


 俺は校長先生に誘われて、将棋ができるバーにやってきた。

 今回の件の対応が忙しくて、なかなかゆっくりできていなかったから、校長先生が見かねて、一杯奢ってくれる流れになったわけだ。


「それでは乾杯」

 校長先生は、そう言ってビールをこちらに向ける。

 俺もうなずいてゆっくりグラスをぶつけた。


「お疲れ様でした」


「それにしても、さすがは元アマチュア・名人。どうやっても勝てませんな」

 校長先生は、苦笑いしながら、詰まされた自玉を見ていた。


「久しぶりに将棋ができて、リフレッシュできました」

 かなり心配されていたんだろう。たしかに、ここ最近は残業続きだったし。


「それはよかった。ちなみに、戦前の大名人・木村義雄が、戦後の大名人・大山康晴に敗れ、名人位を失ったときの名言はご存じかな?」

 将棋指しは、その記憶力を生かして、総じて将棋オタクだ。俺もその例外ではない。


「もちろんです。"よき後継者を得た"ですよね」

 校長先生はにっこり笑う。


「正解です。良い機会だからしっかり話しておきたかったんですよ。高柳先生とはね。君は本当に素晴らしい教師だ。私なんて足元にも及ばないよ。だからこそ、こんなことを言うのは、おこがましいことだとは思っているんだけどね。君のこの仕事ぶりを見て、自分も偉大な先例に倣って、こう言いたいんだ。あと数年で定年退職というこのタイミングで、本当に"よき後継者を得る"ことができたとね」


「そんな、自分なんてまだまだですよ。今回の問題も、他の先生方の協力がなければ……」


「いや、それは謙遜だよ。普通ならしり込みしてしまう問題だった。君が早期に気づいてくれたからこそ、ここまでやれたんだと思う。少し昔話をしよう。実はね、私もいじめが起きたクラスの担任を受け持ったことがあるんだ」

 彼の表情には、どことなく後悔がにじむ。それですべてを察することができる。


「……結局、私は君のように生徒を守ることはできなかった。彼女は学校をやめてしまったんだ。気づいたのは被害者が休みがちになった後でね。教師人生で、最も悔やむのはそのことだよ」

 それは、本当に目の前の一人の教師を苦しめていたんだと思う。

 教師という仕事は、将来がある子供たちの未来を左右する責任ある仕事だ。言葉ではわかっているが、日常の忙しさでそれが遠くなってしまうことがある。


「それは……」

 言葉が続かなかった。もし、青野が校長先生の教え子のようになっていたら、俺は一生後悔していたとわかるから。


「だからこそ、君の対応は素晴らしかった。高柳先生のような教師が現場にいるとわかってね、僕は安心して、君たちにバトンを渡すことができる」

 そして、その表情は覚悟を固めた人間のそれだと思う。


「ありがとうございます」

 もう言葉にするのはこれが限界だった。


「うん。それにしても、最近の若者たちはすごいね。10代でオリンピック選手は当たり前だし、将棋でもそうだ。ほとんど高校生みたいな年齢で、プロのトップを走っている若者がいる。君が守った青野英治君も、きっとそうなるよ。日本の将来を悲観する大人は多いが、こんなに素晴らしい若者がたくさん出てきているから……まだ、捨てたもんじゃないと、私は思っているよ。だからこそ……」

 校長先生は、笑いながら力を込めて語る。俺の目をまっすぐに見ながら。


「すべての責任は、僕がとる。だからこそ、君にはこのまま真っすぐに進んで欲しい。もしかしたら、今後も外野がとやかく言ってくるかもしれない。でも、それは気にしなくていい。責任を取るのが、私の仕事だから」

 上司の覚悟にこちらも答えなくてはいけない。


「全力を尽くします」

 校長先生は穏やかに笑った。


 ※


 高柳先生と談笑し、いいタイミングでトイレに立つ。

 内ポケットに入れておいたスマホのメール受信欄を見ながら、怒りを抑えた。

 数時間前に、文科省に勤務する友人が送ってくれた警告文だった。


「(どうやら、上は、今回の政治スキャンダルを早期解決させるために、そちらのいじめ問題に介入しようとしているらしい。今後、何かしらの圧力があるかもしれないから、気をつけろ)」

 優しい友人に感謝しながら、腐りきった世界に辟易する。


「生徒と部下を守れずに、何が校長だ」

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