第148話 天田美雪と母親

 お母さんに向かって、私は踏み出す。

 もう、どうしようもすることはできない。どんなに取り繕うとしても、それが言い訳になってしまう。


 だから、素直に謝ることしかできない。


「お母さん、ごめんなさい」

 母からは拒絶に近い嫌悪感を感じる。


「あなたは、なにがしたいの……わざわざ、謹慎中に学校に潜り込んで……自殺しようとして。そんなことしてまで、英治君を苦しめたかったの? 彼に最低なことをした上に、何度一生消えない傷をつければ気が済むの?」

 さきほど、一条さんに言われたことと同じことがお母さんの口から返ってきた。


「そんなこと、考える余裕もなかった。ただ、全部失うことが怖くて、今までずっと優等生として生きてきたから。自分の今までの頑張りが全部、全部なくなってしまうのが怖かったの」

 そして、自分がどこまでも自分のことしか考えていなかったと自覚させられる。ただ、自分が今まで築いてきたものを失うことが怖かっただけ。そこには、英治も近藤先輩もお母さんも誰もいなかった。


 さっき屋上で、私を食い止めた一条さんから出てきたのは、彼女自身よりも英治のことを気にしていた。彼女は、自分がいじめの標的になる可能性も、評判が下がるかもしれないことも、全部知ったうえで、英治を支えていた。


 ずっと一緒にいた幼馴染を裏切った自分よりも、彼を大事にしていた。

 それを思い返すだけで、劣等感を刺激させられる。


「結局、あなたはどこまで行っても、自分のことしかないのね。美雪。あなたは、きっと誰も愛していなかったんだと思う。そして、これから先、あなたは誰かを愛せるの?」

 お母さんは、冷たく言い放つ。その鋭利な言葉が、心にゆっくり突き刺さっていく。そして、自分は彼女の言葉の意味をまだ本当の意味で理解できていないとわかってしまう。


 お母さんは、こう言っているんだ。ここから先、ずっと地獄だと。


「どうすれば、私は……」

 許されるの? そう聞こうとして、なんとか口を閉じる。

 そんなこと、聞くことすらも許されないはずだから。


「さっき、青野さんの家に電話できたわ」

 お母さんは、淡々と事実を告げるように続けていく。まるで、私たちは他人だと言わんばかりに。


「……」

 結果を聞くのが怖かった。英治のお母さんとは仲が良かったはずだから。


「謝罪は、受け入れてもらえなかった。当たり前よね。あなたが協力した英治君へのいじめや誹謗中傷の件で、賠償金を請求するつもりらしいわ」

 賠償金。その言葉を聞いて、体温がガクッと下がるのが、わかった。


「……」

 泣きそうになりながら、お母さんの言葉を待つ。


「私は、あなたの保護者として、責任がある。その責任はしっかり果たすつもりよ。賠償金は、青野さんが提示してきた金額を用意する。たとえ、家を売ることになってもね。裁判になれば、お世話になった青野さんに、さらに負担を強いることになる。それは絶対にできない」

 家を売る。お母さんが頑張って働いて、建てた家を失う。その覚悟と過ちの重さがずしりと身体を震わせる。


「ごめんなさい」

 謝ることしかできない。


「あなたは、本当の意味で罪の重さが理解できていないと思う。青野さんに直接、謝罪を言いたいと伝えたけど、こう言われたわ。あなたたちとは、できる限り会いたくないってね。英治君に、美雪のことを思い出させたくもないから、これ以上の連絡はやめてほしいともね。美雪、あなたはそれだけのことをしたのよ。罪の重さをしっかり理解しなさい」

 その言葉はまるで、少しずつ現実に引き戻されるような冷たい水音のように聞こえた。

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