第139話 幸せだけど、少しだけ気まずいふたり
いつものように朝が来る。正直、あんまり眠れなかった。
昨夜の一条さんへの投げた言葉が、何度も反復する。
※
「焦らなくていいよ。こんな、俺でもいいなら……許してくれるなら。俺はずっと一条さんの横にいるよ。どこにもいなくならない、絶対に」
※
それを思い出して、頭が真っ白になって、声にならない悲鳴を上げてしまう。恥ずかしいくらいキザな言葉になってしまった。というか、重すぎるんじゃないか、さすがに。
「冷静に考えたら、もう、あれ告白通り越して、プロポーズじゃ……とんでもないこと口走った」
思わず怖くなる。
でも、それ以上の衝撃は、俺の言葉に続けた彼女の言葉だった。
※
「うん。ちゃんと、捕まえておいてくださいね」
※
これはつまり、俺たちの関係は、どうなったんだ?
ある意味、告白以上に重い言葉を、彼女は嬉しそうに受け止めてくれた。
ふらふらになりながら、朝食を済ませて、外に出る。
そこには、一条さんが笑って待っていた。
「あ、おはようございます、先輩!」
昨夜あんなことになったのに、彼女は自然体でこちらに笑顔を振るまってくれていた。
「うん、おはよう」
俺もできる限りいつもの口調で返す。彼女は、うつむきながら少しだけ笑うと、「行きましょ」と先を歩き始めた。
いつもよりも口数が少ない。そして、できる限り昨日のことは話さないようにしているのがわかりやすい。俺もできる限り、それに合わせて歩幅を合わせる。
いつもより沈黙が多いのに、いつも以上に幸せな気分に包まれる。この言葉にできない関係がとても貴重な時間を作ってくれてる。
俺たちは、同じ歩幅で、同じ目的地を目指していく。その事実だけは、絶対に変わらない。
※
―一条愛視点―
いつものようにキッチン青野の前で、彼を待ち伏せする。
どうしよう。気持ちが悪い笑顔が止まらない。明らかに、浮ついている自分がいる。少なくとも、英治先輩は、私のことを大事に思ってくれている。
その事実が、ちゃんとした言葉になっただけで、こんなに幸せな気持ちになれるんだとわかる。
「大好き」
いない相手のことを思って、空に向けて、言葉を放つ。ゆっくりと言葉が溶けて、余韻が生まれる。心が温かい気持ちになった。
彼が家から出てきた。できる限り、いつものように挨拶する。でも、どうしても、彼の顔を直視できない。直視したら、絶対に昨日の言葉を思い出してしまうから。
母が亡くなってから、ずっと欲しかったものがよくわかった。青野英治という希代の小説家は、私の深層心理を敏感に理解してくれたんだと思う。それこそ、私以上に、それを理解して。
家族が欲しかった。ただ、純粋に愛されたかったし、誰かを愛したかった。
ただの、トロフィーやアクセサリーのように扱われたくはなかった。
私に告白やアプローチしてきた男たちは、近藤も含めて、私の容姿やステータスにしか興味がなかったように見えた。彼らにとっては、私はただの勲章なんだ。あまり、話したこともない人から、まるで"モノ"のように扱われる屈辱感や絶望感は、母を失ってから自覚する孤独感を深め、心を蝕んだ。
彼だけは違った。
私を、モノじゃなくて、人間として扱ってくれた。孤独から救ってくれた人。
昨日の言葉を聞いて、彼の存在がどんどん大きくなる。
存在が大きくなればなるほど、いつも何気なく話していた言葉がかけがえのないものに感じられてしまう。だから、いつも以上に沈黙が多くなってしまう。
でも、早く言葉を紡がなくちゃいけないなんて、気まずい焦りはなかった。むしろ、沈黙がここちよい。
焦る必要はないと、彼は言ってくれた。私は、少しずつ自然体になろうと思う。重い自分の血縁も、過去のつらい思い出も、逃げ続けてきた現実も、彼と一緒になら乗り越えられる気がする。
彼は、私の歩幅に合わせてくれている。そして、一緒に目指す場所も一緒になるはず。そういう優しいところが……いや、ここはちゃんと言葉にしよう。
「先輩、歩くスピード、いつも合わせてくれてありがとうございます」
彼は、恥ずかしそうに笑う。
「ああ、ばれてたんだ」
「わかりますよ、そりゃあ。ずっと一緒にいたら」
「そっか」
「そういう、優しいところ、大好きですよ」
少しだけ冗談めかして、たくさんの感謝を込めて、私たちなりのスピードで前に進んだ。
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