第127話 一条愛
少しくらい間違えてもいい。その言葉が心で反響する。あの一条さんが俺に、そこまでしてくれる。とても光栄なことだ。理性もかなり揺らいでいる。
もう、直接言葉にしなくても、お互いのことを大事に思っているのは、言葉の節々から感じる。たぶん、俺が告白すれば、彼女は即決で許してくれると思っている。
「間違いって……」
俺は思わず苦笑してしまった。
「ちょっと、エッチなこと考えました?」
彼女は、ポーカーフェイス的なアルカイックスマイルで笑う。一条さんがそうやって笑うときは、なにか照れ隠ししているときだ。
一条さんは、完璧超人だけど、人間関係に関しては年相応みたいなところがある。本人は隠しているつもりだと思うが、彼女の笑みには、どこか暗い部分がある。それは、たぶん家族関係が影響していると思った。
彼女があの日、死のうとしていた理由は聞いていない。
でも、家族関係に何かあるというのは聞かなくてもわかる。彼女は、意図的に家族の話をすることを避けていた。他の自分のプライベートな話は教えてくれるのに、その話題は絶対に話そうとしない。父さんが生前によく言っていたことを思い出す。
「家族関係に何かあるということ自体が、それだけで子供を傷つけてしまうんだよ」
その言葉は、レストランでいろんなお客さんを見て、ボランティア活動に生きた父さんなりの人間観が強く出ていた。
※
二度目の彼女の部屋は、どこか寂しそうだった。
甘い香りとどこか機械的な部屋だ。彼女は、ずっと他人が理想する一条愛を演じ続けていたんだと思う。その結果がこの部屋とあの日の屋上だと思う。
「紅茶でいいですよね」
「うん」
もう、俺が好きな紅茶は、知っているようだ。情報提供元は母さんだな。たぶん、いつ遊びに来てもいいように、用意してくれていたのか。
一条さんは、手際よく、お湯を沸かし、戸棚から茶菓子をみつくろっていた。
俺は、その様子をじっくり見ている。
「なに、じろじろ見ているんですか。ちょっと恥ずかしいんですけど」
恥ずかしそうな抗議が飛んできてしまった。
「いや、一条さんの日常が感じられて嬉しくて」
「もう、私じゃなければ、セクハラですよ」
彼女は、楽しそうに不満を述べている。
さっきまでの緊張感は、どこかに吹き飛んでいた。
「先輩、さっき話したこと覚えていますか」
アンティーク調の高そうなティーカップを用意しながら、小悪魔的にそう問いかけてくる。少しだけとぼけて「なんだっけ?」と返したが、彼女は少しだけ機嫌が悪そうに「もう」と不平を言う。
「少しくらいってどこまでだと思います?」
思わず、飲んでいた紅茶を吐き出しそうになる。まさか、ここまで踏み込んでくるとは思わなかった。
「さぁ?」
こちらも余裕を持っているように見せかける。お互いに、緊張しているはずなのに。
「手を握る? キス? それとも……」
彼女は紅茶を置いて、椅子に座っている俺のほうに近づいて、耳元でささやく。
「それ、以上?」
たぶん、この攻撃でぐらつかない男は、ほとんどいないはず。
俺はゆっくりと立ち上がり、彼女の柔らかい身体を抱きしめる。甘くてはちみつのような香りがした。少しだけ、びくりとした彼女の身体は、すぐに脱力する。
一条さんは、すでに覚悟を固めていたかのように俺を受け入れてくれる。彼女の細い腕をゆっくりと背中に回してくれる。
俺はさっきの問いの答えをしぼりだした。
「これくらいかな」
俺の腕の中には、学園のアイドルと呼ばれ、文部両道の才女であるはずの後輩はいなかった。そこにいたのは、ただ弱くて傷つきやすい一人の女の子だ。
「そっか」
一条さんは嬉しそうで、どこか悲しそうな顔で安心した笑顔をこちらに向ける。
彼女は、俺の胸に顔をうずめた。
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