第128話 青野英治

 俺は、彼女の身体を強く抱きしめる。

 やわらかい肌の感触。甘い息遣い。シャンプーやせっけんの香り。


「ごめんなさい。でも、もう少しだけ」

 彼女は甘えるように、顔を見せようとしない。たぶん、泣いている。声は震えていた。


 そこにいるのは、完璧超人の学校のアイドルではなかった。そこにいるのは、あの日、屋上で出会った年相応の傷つきやすい少女としての一条愛だった。


 次に選ぶこの選択肢が正解だとは思わない。でも、自分の気持ちに従ってみよう。勘違いかもしれない。彼女の期待したことではないかもしれない。重すぎるかもしれない。


 でも、美雪との件で学んだことだから。伝えたいことは、近くにいてくれるうちに伝えなくちゃいけない。


 俺は腕の力を抜く。

 一条さんは、それに少しだけ驚いて、うるんだ目でこちらを見つめる。

 顔は真っ赤になっていて、不安そうに、そして、すがりつくような見たこともない弱々しい表情で。


「先輩?」

 俺は、不安そうに見つめる彼女の両肩の触って、言葉を紡ぐ。




「焦らなくていいよ。こんな、俺でもいいなら……許してくれるなら。俺はずっと一条さんの横にいるよ。どこにもいなくならない、絶対に」




 驚いたような表情で、彼女はこちらを見つめていた。

 愛の告白のような、ある意味、それ以上の重いものを彼女にぶつけた。


 時間差で意味が分かったように、彼女は「えっ」と短い声をもらして、先ほどと同じように俺に飛び込んでくる。


「うん。ちゃんと、捕まえておいてくださいね」

 彼女は震えながら、どこか嬉しそうに答える。

 俺はその言葉を頼りに、もう一度、彼女の背中に向けて、手を伸ばした。


「ああ、絶対に」

 俺たちは少しずつ前に進む。

 

 ※


―一条愛視点―


「少しくらいってどこまでだと思います? 手を握る? キス? それとも……それ以上?」

 私の意地悪な質問に、彼はとても困っているように見えた。言ってしまってから、自己嫌悪に襲われる。優しい彼に、残酷な選択肢を突きつけていると自覚したから。天田さんのことも起きたばかりなのに、まだ、心の整理がついていないかもしれない彼に向かって、自分は……


 焦っていた。彼の才能は、私なんか及ばない。彼の小説家デビューが決まったことは嬉しかったけど、自分がどこか置いていかれてしまうような寂しさもあった。


 もう、置いていかれるのは嫌だった。お母さんも父も遠くに行ってしまった。

 先輩も遠くに行ってしまうのが怖かった。まるで、駄々っ子のように、彼に甘えているかのようにふるまってしまう。


 次の言葉、もしくは、行動が怖かった。彼がどれを選んでも、私は嬉しい。でも、それと同時に後悔する自分が想像できた。彼に無理やり選ばせてしまったことになるから。


 彼は、何も言わずに、私を抱きしめる。

 自分にどこまでも寄り添ってくれる彼の優しさに包まれる。嬉しい。


 彼は遠慮がちに「これくらいかな?」とつぶやく。

 彼の体温がこちらに伝わってくる。大きい背中が安心感を与えてくれる。


 嬉しい。でも、いやしい自分が出てきてしまう。関係を無理やりにでも変えてしまいたい。彼がどこか遠くに行ってしまったらどうするの。誰かほかに好きな人ができたらどうするの。私たちの関係は、危うい橋を渡っているだけなのに。なにか、既成事実が欲しい。


 そして、その利己的な自分が嫌だった。優しい彼に付け込んだ形になっている。


「ごめんなさい。でも、もう少しだけ」

 すがりつくように、遠くに行かないように、自分という存在を彼に示すために。

 彼は、わたしのわがままにつきあってくれるかのように、その姿勢を維持する。


 そして、彼はゆっくりと力を抜いた。

 その一瞬がとても悲しかった。嫌われたかもしれない。その疑念のせいで、世界が壊れたよう音がした。


 泣きそうになりながら、「先輩?」としぼりだした。

 彼は、とても誠実な表情で優しく私の両肩をつかんだ。



「焦らなくていいよ。こんな、俺でもいいなら……許してくれるなら。俺はずっと一条さんの横にいるよ。どこにもいなくならない、絶対に」



 彼が紡いでくれた言葉は、私の想像を超えるものだった。

 頭が理解するまでに時間がかかる。


 恋人になるための告白に似ているようで、それ以上に重い告白。

 そして、私が挙げた選択肢のどれよりも欲しかった言葉。


「えっ」

 頭は真っ白になって、心音がどんどん大きくなる。伝わってしまうんじゃないかと怖くなるくらい。


 頑張って彼の顔を見ようとする。緊張して、うまく視線を合わせることができない。


 でも、絶対に彼の顔を見て、答えたい。勇気を出して、彼の顔を見つめると、不安そうにこちらを見ている彼がいた。


 それを見ると、気持ちは落ち着いて、素直に自分の気持ちを出すことができた。


「うん。ちゃんと、捕まえておいてくださいね」

 私はこの数年間で一番うれしい顔をしていたと思う。


「ああ、絶対に」

 その言葉を聞いて、本当に幸せな気持ちになる。

 ゆっくりと私たちは前に進んでいく。

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