第90話 近藤市議の最後の栄光

―近藤父視点―


 ここが、噂のキッチン青野か。

 秘書に指定された場所まで来ると、老舗風の落ち着いた洋食屋だった。

 情報によれば、店主だった青野英治の父は数年前に病死して、今は母親と兄がきりもりしているらしい。これは良いニュースだな。こういう家族構成の場合は、たいてい金がない。だから、最初は反発しても、金を積み上げれば……きっと示談に応じてくれるはずだ。


 扉を開く。まだ、開店時間前のはず。


「いらっしゃ……まだ、開店時間前なんですが、どういったご用でしょうか。近藤市議?」

 出てきたのは、青野英治の母親だった。

 そして、すぐに自分のことを把握していることを見るに、やはり彼女が息子への被害届を出した張本人だろう。


「青野英治君のお母様でいらっしゃいますか?」

 まずは、紳士を装って、礼儀正しくだ。


「そうですが……一体何の御用で?」

 明らかに拒否感がにじみでている。これは手強いな。


「このたびは、息子の件でご迷惑をおかけしまして。私も息子の愚行を先ほど知ったのです。本来であればもっと早く謝罪に来るべきところですが、遅くなって申し訳ございません」

 こちらはしっかり頭を下げた。


「そのことでお話をすることはございません。警察の方でしっかり調査をしてもらう予定ですので」


「そんなことをおっしゃらずに。どうか、被害届を撤回してはいただけませんでしょうか。息子は部活の大事な大会や大学入試を控えています。どうか穏便に……」


「大事な息子が殴られたんですよ!? それを謝ったからって許してくれ。ふざけないでください!!」

 彼女は、激高してしまった。めんどくさいことになったな。


「ええ、もちろん。お怒りはごもっとも。ですので、ただとは言いません。しっかりとした示談金などもお支払い致しますので。どうか、どうか」

 こういう場合は、金の話をすれば、少しは揺らぐものがあるはず。


「金で動くと思っているんですか。本当に失礼な人ですね」

 ふん、強がりだな。まあ、いいさ。ここからは、戦いだ。


「ですが、お金は必要でしょう。英治君だって、もうすぐ大学入試の時期です。いくらお金があっても、悪いことではないはずです」

 さあ、現実を叩きつけられて少しくらい悩むだろう。どうでるかな。


「なめないでください。いい加減にしないと、警察呼びますよ!!」

 あーあ。最後のチャンスだったのにな。俺を怒らせちゃったな、このおばさん。


「青野さん。私は、市議と建設業を営んでおります。できれば、物事を穏便に済ませておきたいのですよ。何を言っているか、大人なあなたなら理解できますよね?」


「脅しているんですか?」


「まさか。ただの自己紹介ですよ」

 もちろん脅しだ。市議なら市役所に圧力をかけて、いろんな許可申請に口を出すことができる。それに金だってある。


「あなたって人は……」

 少しぐらついてきたな。ここは押し通すぞ。


「これはひとりごとです。このお店は、亡くなった旦那さんが残した大切なお店ですよね。だから、大ごとにしない方がいいですよ。私が本気をだせば、こんな店、どうすることだってできるんですから」

 さあ、早く示談にしろ。金をもらって、それで満足しろ。


 勝利を確信した瞬間、店の奥から拍手が聞こえてきた。

 靴音と共に乾いた拍手音が、こちらに迫ってくる。誰だ、報告にあった長男か?


「すばらしい名演説だったよ、近藤君」

 しわがれた声が親し気に名前を呼ぶ。すぐに、長男の可能性が消える。誰だ、聞いたことがある声だぞ。


 声の主はゆっくりと姿を現した。頭に身に着けていた帽子を俳優のように取る仕草から迫力を感じた。


「あ……なたは……」

 思わぬ登場人物に、声がかすれてしまう。


「まさか、市議会議員であるキミに、そんな権力があるなど、寡聞かぶんにして知らなかったな。どうやら、わしの勉強不足のようだ。だから、しっかり、教えてくれないかな。この隠居老人にな」

 南前市長が笑って、目の前に腰かける。引退してから数年経つが、いまだに職員や市議たちから信頼されていて市政に大きな影響力を誇る大物がなぜ、こんなちっぽけな洋食屋にいるんだ。


 ありえない。


「さあ、もう一度よく聞かせてくれないかな、近藤君? キミは何ができるのかを」

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