第69話 失望と希望

―愛視点―


 人生で初めてお店でラーメンを食べた。

 もちろん食べたことがないわけではない。父親の元を離れて、ひとり暮らしを始めてから、興味があったインスタント食品は少しだけ試した。


 即席めんやカップ麺は、美味しかった。でも、すぐに飽きてしまうし、ずっと教育されていたバランスの良い食生活に戻ってしまう。もともと、料理はそこそこ好きだったし、お手伝いさんに教えもらいながら夕食を作るのも楽しかったから。


 でも、いつかはラーメン屋さんで食べてみたいと思っていた。さすがに、女の子が一人で行くには、ハードルが高い。


 そんなこともあって、先輩に何気なく言ったことをおぼえてもらえていて本当に嬉しかった。特に土日は、お手伝いさんもお休みなので寂しい夕食を過ごさずに済むのはありがたい。


 何気なくした話でもしっかりおぼえていてくれて、誘ってくれた。好きな人にそういう風に優しくされて、幸せな気持ちにならない女の子なんていない。


 本当に夕食を食べただけで解散となってしまったが、楽しい時間だった。それだけでも、日曜日の憂鬱な気分を吹き飛ばしてくれる。


「そうだ。お茶を切らしてたんだ」

 いつも勉強しながら飲む紅茶を切らしていたことに気づく。あれがないと、勉強の効率が悪くなるので、近くのスーパーに行こうと、マンションのエントランスを出て、もう一度外に向かった。


 少し歩いたところで、英治センパイの後姿が見えた。もしかしたら、一緒にスーパーの買い物に付き合ってくれるかもしれない。迷惑かもしれないけど、勇気を出して誘ってみようかな。


「エイジせ……」

 声をかけようとしたところで、もうひとりの人影に気づいた。

 天田美雪さんだ。

 

「どうして……」

 まさか、待ち伏せ? それとも、つけられていたの?

 浮ついていた気持ちが、一気に冷えていく。


 まだ、だめだ。傷ついてやっと笑えるようになってきた英治センパイに、天田さんを接触させるには早すぎる。


 だって、10年連れ添った幼馴染に裏切られたばかり。あまり気にしていないように振る舞っていても、この短期間じゃ……


 それに、天田さんはまだ先輩に未練があるのは、先ほどの会話でもわかりきっている。彼女がセンパイの優しさに付け込んで復縁を求める可能性だって……


 そして、自分が何に焦っているのかにも気づいた。

 彼が私ではない人に取られてしまう可能性を自覚したからだ。青野英治という男性が、自分を選んでくれなかったらどうしようという不安が心の中で暴れていた。そもそも、自分たちは、お互いに独占欲を示していい関係性でもない。


 それが怖くなって、いけないことだわかりつつ二人の会話を聞こえるギリギリの物陰に隠れて様子をうかがう。


 ※


「ち、違う。そうじゃない。少しでもいいから前みたいに戻りたいって」


「何を言っているんだ」


「ごめんなさい。最低のことをしたのはわかっています。それだけでも、伝えたくて……」


 ※


 最初に聞き取れた言葉は、天田さんの弁明だった。思わず何を勝手なことを言っているのかと怒りそうになる。彼女がそんなことを言える立場でもなければ資格もないはずなのに。


 それに対して、先輩は一瞬固まって、無表情に答えていた。


 ※


「もっと、怒ると思っていたんだけどな、俺。好きの反対は、無関心ってことか」

「何を言っているの、英治? 英治が許してくれるなら、私なんでもするから……」


 ※


 好きの反対は無関心。これを好きな人に言われてショックを受けない人間はいないだろう。無慈悲な拒絶の言葉。それに対して、天田さんは明らかに言葉を間違えた。


 いつも優しい先輩が、その言葉を聞いて、明確に失望の色を強めた。

 生理的な拒絶感のようなものすら感じられるほど、言葉の節々が冷たくなる。


 ※


「そうじゃないんだよ。これ以上、思い出を汚して欲しくないというか。やっぱり、俺たち今後とも付き合わない方がいいと思うんだ。それがきっとお互いのためだと思うから。これ以上、美雪のことを嫌いになりたくない」


 ※


 本当に彼は優しい人間だ。あんなことをされても、彼女との大事な思い出は否定しないのだから。


 仮に自分が同じ立場だったら、恋人に対して酷い恨み節をぶつけてしまうだろう。だけど、彼はそれをしないように必死で自分を押しとどめている。それほど、彼女のことを大事にしていたのがよくわかった。


 そして、最後に明確な拒絶を示す。優しいはずの彼が、人を傷つけることも躊躇ちゅうちょしていない。それほど、深く彼女に失望している。


 ※


「俺、他に好きな人がいるからさ」


 ※


 その言葉を聞いた瞬間、思わず心臓が高鳴る。自意識過剰かもしれない。でも、それが自分だったらどんなに幸せだろうか。


『それって一条さんのこと?』

 天田さんは、何度も「嫌だ」を繰り返した後、私の名前を突然出した。聞いてはいけないことを聞いてしまうかもしれない。


 彼は振り返りもせずに、答える。


『それを本人よりも先に美雪に伝えるべきじゃないと思う。だから、答えられない』

 彼はそのまま泣き崩れる天田さんをそのままにその場を去っていった。

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