懐夏
稲荷ずー
懐夏
「わぁ〜、綺麗〜」
空が一瞬明るくなり、人々の歓声が大きくなった。
今日は、
「きれいだね」
このが優しい笑みを向けて言った。
風の涼しい、静かな夜だった。
「向こうでやってる花火の方がもっときれいだよ」
「ねーそういう事言わないで!」
ほら、水足りないでしょ! もっと入れてきて! と、頬を膨らませて言うこのの顔はどこか楽しげだった。
「このが入れてきたんでしょ?」
軽いバケツを持ち上げて見せた。このは一瞬悲しげな目をしたが、すぐにいつもの笑顔に戻った。
「いいからいいからっ! 早くしないと、次の花火に火つけちゃうよ?」
「はいはい」
しぶしぶ立ち上がり、近くの水道からバケツに水を入れる。まだ火が消えきっていなかった花火が水に浸かり、じゅっ、と音を立てた。
大きな建物を挟んだ向こう側では、大きな花火大会が開かれているというのに、たつきとこのんは、裏手にある小さな公園で手持ち花火をしていた。
「なんでわざわざこの日にやるんだよ」
「だってたっちゃん、土曜日にしか来てくれないじゃん」
「まあ、そうだけど……。でも、別に言ってくれれば時間作ったのに」
「ほんと?」
このが弾かれたように顔をあげた。
パチパチと音を立てて、線香花火が煌めく。時が水の中にいるように、ゆっくりと感じられた。
赤く淡い光に照らされたこのの顔は、とてもきれいだった。
「うん。一日くらいなら学校サボったって平気だし。……バイトも、まあ、大丈夫でしょ」
「嬉しい。でもごめんね。私、来週からすごく忙しくなるんだ」
「そ。大丈夫なの? 外に出てきて」
「大丈夫だよ、ちょっとくらい。バレたら怒られちゃうけどねっ」
線香花火に火をつける。
去年の夏は、一緒に花火を見て、手持ち花火もした。「このひらひらを持つと揺れて落ちやすくなるから、ひらひらの付け根を持つと良いんだよ」と、このから教えてもらったのを覚えている。このは、線香花火が上手だった。
「ね、勝負しよ? どっちのほうが長くできるか」
「いいよ。じゃ、俺が火つけるね」
二、三回、チャッカマンのレバーを引いて火をつけた。二人が花火に火を移す。やがて、ぱちぱちとかわいい音を立てて、小さな赤い玉が弾けだした。
風も少なく、雲もない、静かで、良い夜だった。たつきはなるべく、このの風下に立つようにして花火を見つめていた。
ふと目線を上げ、このの顔を見た。花火を見つめる瞳はもの
「あ〜ん、私のちょっと大きいかも……」
ちらりとこのの花火を見ると、赤い玉はたつきのものよりも大きく、激しく
「いいじゃん。綺麗で」
「負けちゃうでしょ! 大きかったら!
あ〜〜、ほらぁ!」
何の前触れもなく、このの花火がぽとりと地面に落ちた。
「はい、俺の勝ち」
たつきの花火は、このの花火が落ちたあともしばらくの間爆ぜていた。細く、よわよわしくも長く爆ぜる火の玉をぼーっと見つめ、このが呟いた。
「私、もうすぐで退院できるんだって」
……。
一瞬、時が止まったような感覚がした。やがて、その言葉がじんわりと心の底に沈んでいくと、言葉にできない様々な思いが、浮かんでは、消えていった。
「……そう。良かったじゃん」
「もっと喜んでよ? ようやくここのまっずい病院食とも、辛いリハビリとも、サヨナラ出来るんだから」
「うん。……俺も、毎週お見舞いに行かなくてよくなると思うと、気が楽になるよ」
なんて言えば良いのかわからず、突き放すようにそう言った。そのあとのこのの反応を見るに、彼女はきっと、もっとちゃんとした言葉を贈ってほしかったのだと思う。
「……うん。来年も、花火しようね」
「当たり前だろ」
たつきが傍にあったビニール袋をごそごそとあさり、変色花火を二つ取り出した。片方をこのに渡し、自分の花火に火をつける。
しばらくして、シュー、という音を立てて勢いよく火花が散った。
「こののやつかして。火つけてあげる」
うん、と小さく呟いき、このが、自分の花火をたつきの花火にそっと近づけた。ほどなくして、音と火花が二つに増えた。
「あれ」
「あ、くっついちゃった」
「このが離さないからだよ」
「えへへ」
くっついた花火をそのままにしておいたが、やがて二つに別れてしまった。
たつきが、体をぴったりとくっつける。赤い火花が、緑や黄色に変わっていく。お互いの重さを感じながら、短くなっていく花火を見つめていた。
「ごほっ、ごほっ」
煙を吸ってしまったのか、このが咳き込んだ。肩にかかっていた体重が重くなるのを感じた。
「この、ほら、水飲んで」
花火と一緒に買ってきた水を、詰まらないようにゆっくりとこのに飲ませた。白い喉が、水を飲むたびに上下に動いた。
「……ごほっ。ありがとう、ごめんね」
背中をさする手が、僅かに震えた。このと初めて会った日のことはあまりよく覚えていないが、とてもふわふわした、特別な雰囲気をまとっていたことはなんとなく覚えている。捉え所のない人だった。
このは強がりだった。このは、寂しがり屋だった。いつか、お見舞いに行った帰り、忘れ物をしたのに気づいて病室に引き返したことがある。病室からは、すすり泣くような声が僅かに漏れていて、部屋に入るのは
「そろそろ、終わりにしよ?」
たつきがそう聞くと、このは悲しそうな顔をしてうつむいたまま、黙り込んでしまった。
虫の声すら聞こえない静かな夜だった。
腕の中で、このが僅かに震えていた。強く抱きしめれば崩れてしまいそうなほど儚かった。
……このまま、二人で消えてしまいたかった。
「……来年も、ずっと、花火しよ」
「うん。絶対だよ? 約束」
「うん」
「明日も来るから」
「うん。待ってる」
このが、何かを言いかけて口を開いた。
胸が締め付けられるように痛んだ。どうしようもなく、愛おしかった。すぐそばでこのの匂いをかいで、髪に触れる度に、胸の奥に沈む重い痛みが増していった。そのまま、お互いの気が済むまでずっと抱き合っていた。
次の週は、まるまる学校を休んで、こののお見舞いに行った。何回目かの面会の後は、このと会えなくなってしまった。
次にこのに会えたのは、その年の九月だった。このはへらへらと笑っていた。どんな言葉を交わしたかはよく覚えていないが、あの時と同じ胸の痛みだけは覚えている。
このが……その、"退院"した後、俺は看護師さんから一枚の手紙を渡された。可愛らしい丸い字だった。初めて会った日のこと。お見舞いに行ったときのこと、俺が帰ったあとのこと。あの夏の花火のことも書いてあった。……このは、あの時、俺が病室の外にいることに気づいていたらしい。忘れ物は一緒に持っていくと書いてあった。
このが退院したあとも、俺は定期的にこのに会いに行っていた。夏には線香や花を一本持ち出して、花火もやった。
あの二年は、とても綺麗だった。
あの夏は、とても綺麗だった。
「行ってくるねー」
妻と娘が弾んだ声で出かけていった。今日は百五回目の花火大会の日だ。今の花火は昔の物よりも、もっと大きく派手なものが多くなっている。大会の規模も昔よりずっと大きくなった。
娘はあの時の俺たちと同じ、十七歳になった。都内の大学に行くために、毎日必死に勉強している。今日は息抜きの為彼氏と一緒に花火を見るらしい。
……あの頃の俺たちは、どんな関係であっただろうか。お互いを想っていても言葉には出さない、不器用な関係だった。そのせいで、色々な後悔もしてきた。もしあの時、このに優しくできていたら……。もしあの時、想いをちゃんと伝えられていたら……。
たつきは、線香花火を一つ手に取り、火をつけた。部屋の中では、線香が細く煙を立てている。
風に揺られ、煙がそっと、たつきの背中を撫でる。
あの夏の、あの匂いがした気がした。
「綺麗な花火……」
懐夏 稲荷ずー @inari_zooo
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