第二話 魔王
失恋してから私はとりつかれたように、暇があればピアノを弾いた。
鍵盤に叩きつけた、世の中への怨念を。
そんな私の演奏を学校の音楽の先生が聞いて、「君には才能がある」と言われた。
ピアノのコンクールにその人の推薦で出場させてもらうことになり、なんと私は優勝してしまった。
そして月日がたち、私は大きなホールで演奏するまでにもなった。
私は天才と言われるようになり、一部の人々からはちやほやされている。
でも、私は全然嬉しくなかった。
別にこんな才能、いらなかった。
そんなことより、愛する人に愛されたかった。
ある日、いつものように大きなホールで演奏をした後のこと。
イベントが終わり、観客やスタッフが全員いなくなっても、私はここにいた。
なんだか弾き足りない。
私のこの燃え盛るような怨念は、一日に一時間や二時間演奏したところで、満足してくれないのだ。
私は誰もいない、だだっ広いコンサートホールで、孤独な演奏を始めた。
心の底から湧き上がる暗い情動を、鍵盤に叩きつける。
何度も、何度も、強く、激しく……
「はぁ、はぁ、はぁ……」
演奏が終わると、息が苦しいほどに、呼吸が乱れていた。
疲れた……。でも、少しすっきりした。
ぱち、ぱち、ぱち……
突然、拍手の音が聞こえてきた。
客席の方を見ると、最前席の真ん中に、ある男がいた。
鋭い目つきをした強面の男だが、かなり美形だ。
「とても美しい音色だね」
その男が透き通るような声で言う。
よく聞く称賛の言葉なので、私はそれを聞いても別に何とも思わなかった。
「そう、嬉しいわ」
「ふっ、本当に嬉しいと思っているのかい?」
その言葉にドキッとした。自分の心を見透かされたような気がして。
彼は動揺する私を見て、柔和な微笑みを浮かべている。
彼のその黒い瞳に、吸い込まれそうな気がした。
この男は普通の男とは違う、と直感した。
「どうやら君は何か深い憎悪のようなものを持っているようだね」
「……どうしてそう思うんですか」
「演奏を聞けばわかるよ」
「……不可解ですね、私が憎悪で演奏していると思ったなら、どうして美しい音色だと思ったんですか?憎悪なんて美しくないでしょう?」
「違うな、憎悪だからこそ美しいのさ、確かにネガティブな感情かもしれない、しかしそういう感情こそ美しいものを生み出すんだよ」
「よくわかりませんね」
「なら、わかってもらうために、俺も君に一曲弾いてあげよう」
男がこちらに来た。
私が席を譲ると、彼はさっきまで私が座っていた底に座り、一呼吸入れた後、弾き始めた。
途端にピアノから流れ出す、深い闇を感じさせる音の濁流。
感じる、彼の怒りを、恨みを、世界に対する深い憎しみを。
彼はきっとこんな世界なんて滅べばいいと思っている。
でも、美しかった。こんなに暗い感情を抱かせる演奏なのに、今まで聴いたどの演奏よりも美しかった。
「どうだい?」
演奏を終えた後、彼は涼しい顔でそう訊いてきた。
「……あなたの言うことがよくわかりました」
「ならよかった」
去ろうとする彼に、問いかける。
「ちょっと待ってください、あなたは何者ですか?」
「魔王」
「え?」
「俺は魔王、人類の敵だよ」
彼はそう言うと唐突に上着を脱いだ、筋肉質な上半身が露わになる。
背中からは禍々しい紫焔の色の羽が生えていた。
私はその羽から目が離せなかった。
自分とは異なる存在であり、圧倒的な威圧感を抱かせるその羽に恐怖感もあったが、それ以上に、美しいと思ったのだ。
彼は窓から飛び立っていった。
私は彼が飛んでいく姿を、見えなくなるまで見つめていた。
魔王と会ってからというもの、私は彼のことが頭から離れなくなった。
また会いたい、そう強く思った。
でも、当然かもしれないが、魔王に簡単に会えるわけがない。
目撃情報を聞くたびにその場所に向かったりしていたのだが、すでにそこから離れていたり、そもそも嘘の情報だったりした。
ピアノを弾いていたらまたいつか会えると信じて、いろんなところで演奏した。
そして全然会えないまま、魔王と初めて会った日から一年以上経過したときのこと、
再開はもう半ばあきらめていた私は、コンサートの帰り、夜の薄暗い裏通りの道で、どこからかピアノの音を聞いた。
この深淵から響いてくるような音は、間違いない、彼だ。
私は音のする方向へ歩き出した。すると、ある廃墟に行きついた。
幽霊でもいそうな、寂れた大きな屋敷。
そこの中に入ると、広々としたロビーがあり、部屋の中央に大きな階段があった。
その階段を上り、奥へ進むと、大きな扉が立ちはだかった。
両手でその扉を押し開けると、その先は大きなコンサートホールのような場所になっていて、奥の壇上で、魔王がピアノを弾いていた。
私が近づくと、彼は演奏を止めて、私を見た。
「会いたかったよ」
「私もです、あなたと初めて会ってから、再会を望まない日はありませんでした」
「そうか、嬉しいよ、また会いたいと密かに君をずっと探していたんだが、なかなか会えなくてね、ピアノを弾いたら君がその音を聞いて来てくれるんじゃないかと期待して弾いてみたんだが、まさか本当に会えるとはね」
「私もあなたをずっと探していました」
「それは嬉しいな、そうだ、せっかくここへ来たんだ、君も弾いていかないかい? 幸いなことにピアノはもう一台ある」
彼は向かい側にあるピアノを指差した。
「一緒に弾こうよ?」
「いいですね、弾きましょう」
私が彼の向かい側にあるピアノのところへ行き、椅子に座ると、彼は演奏し始めた。
その音を聞いた瞬間、私は戸惑った。
彼がそれまで出していた音とは全く違った感情を抱かせる音色だったからだ。
あの暗く、世界への憎しみを乗せた旋律ではない、切なさと同時に燃え上がるような情熱を感じさせる演奏。
彼は何を求めているのだろう?
この演奏で何を伝えようとしているのかしら?
彼は鍵盤から視線を離して、向かい側の私を見た。
真っすぐ、何かを渇望するような瞳が私を射抜く。
そして、その目と演奏で気づいた。
そうか、これは求愛なんだと。彼は私に愛を伝えているんだと。
理解した瞬間、私の体は歓喜で震えた。目の端に涙がたまってきたのでそれをぬぐった。
いけない、ぐずぐずしていたら、私も彼の気持ちに応えなきゃ。
私もピアノを弾き始めた。強く、情熱的に。
だが、いつものように、自分の奥底に眠る深い憎悪を鍵盤に叩きつけているわけじゃない。
私は胸の内の淡い想いを、深くわかり会いたいという気持ちを込めて、演奏する。
それは、暗い音色ではなく、燃え上がる炎で自分を焼き尽くしてしまうかのような、恋慕の調べ。
私が自分の気持ちを伝えると、彼は明るく踊るような音をピアノから響かせた。
私も自分の飛び上がるような歓喜を演奏で伝えた。
向かい合う二つのピアノが奏でる音が欣喜雀躍としている。
まるで時間が止まっているような感覚に陥る。
世界に二人だけしかいないというような気さえしてきた。
いつまでもこんな時間が続けばいいのに、なんて思った。
でも、そんな私たちを邪魔するものが現れてしまう。
最高潮に盛り上がっていたところで、彼は唐突に手を止めてしまった。
「どうしたの?」
「誰かこの中に入ってくる」
「え、そんな、いったい誰が、危険な人物なの?」
「俺にとっては危険だな。おそらくこの気配は勇者だ。奴は俺の居場所を感じとることができるんだ」
勇者と聞いて、ドキッとしてしまう。
昔、彼に抱いていた恋心を少し思い出してしまった。
魔王がそんな私を怪訝そうな顔で見てきた。
「なんだ、その顔は。勇者と訊いて動揺したが、君はもしかして、勇者と深い仲にあるのか?」
「ち、違うわ、昔、勇者様をお慕いしていたことがあったというだけ」
「そうか……ならなおさら勇者を野放しにできないな」
「え、どうして?」
「わからないか? 君の心を完全に奪いたいからだ」
ドキッとしてしまう。
胸が早鐘を打っているのをはっきりと感じる。
「君は早くここから逃げたほうがいい、俺と一緒にいるところを見られたら……」
そのとき、バンッと扉が開いて、勇者とその仲間たちがここに入ってきた。
勇者の穢れのない正義の瞳が、私を射抜いた。
「君は……見覚えがあるな、魔王と一緒に何をしている?」
「そ、それは……」
私が言い訳を考えていると、勇者様が厳しい顔で詰問してきた。
「敵対してるって様子じゃないな、仲良さそうにすら見える。まさか君は、人類を裏切ったのか?」
「ち、ちがうわ、私は!」
「俺に嘘は通用しないよ。魔王の味方をするというなら、君も断罪しなければならない」
勇者様は鞘から光り輝く剣を抜いた。
私のような暗い心を持つ存在には、あまりにも眩しいその輝き。
あれがうわさに聞く、勇者だけが使える伝説の剣――断罪の剣。
己が心の中で悪と断じた者だけを斬ることができるらしい。
相手が邪悪であればあるほどその攻撃力は増すと聞いたことがある。
私にも、あの攻撃は効くのだろうか、効くとしたら……
想像すると、身震いした。
魔王様がぎりっと歯ぎしりをする。
「俺が隙を作る、その間に逃げろ」
「そんな、魔王様は!」
「俺は大丈夫だ、あの程度の若造に負けるはずがない」
「ほんとですか?」
「ほんとだ、だから早く行け」
魔王が私を手で突き放してきた。
私は文句を言おうとしたが、魔王様の覚悟に満ちた顔を見て、何も言えなくなってしまう。
私がこれ以上ここにいたところで、足手まといになるだけなのね。
私は意を決し、入ってきたところから反対側にある扉から逃げだした。
「逃がさないよ!」
「させるか!」
背後から剣呑な会話が聞こえてくる。
魔王様の無事を願いながら私は足を必死に動かした。
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