第38話
◆
禁軍の男は俺の返事に、まったく動じなかった。
動じないまま、言葉を重ねてきた。
「アルタ殿。エイグリア殿から何を聞かされたかは知らないが、我々はきみを必要としている。来るべき動乱において、きみは大きな意味を持つと見ているのだ」
俺は頷くことすらせず、彼を見ていた。彼も彼で、真摯な眼差しで俺を見て、言葉は冷静だった。
「魔物との戦いにはきみの力、その並外れた破魔の力が必要になる。マーズ帝国を、人間を守るために、その力を生かして欲しい」
やはり俺は、反応をしないまま、相手を見た。
沈黙がやってくる。どちらも身じろぎもしない。
それが不意に、禁軍の男が卓の上の器に手を伸ばし、その大きな手で器をとると、豪快に煽るように中身を飲み干した。その器が音高く卓に戻った時には、剛毅な笑みが彼の顔に浮かんでいた。
「まぁ、俺がきみでも、こんな胡散臭い誘いには乗らないわな。ましてや防衛軍の実態を知り、逆に禁軍のなんたるかも知らないのでは、返事のしようもあるまい」
勝手に納得しだした男に、俺はわずかに首をかしげて無言ながら疑問を伝えてみた。彼は声を上げて笑う。
「今のは自嘲よ。来るべき動乱など、禁軍が健在ならいくらでも凌げよう。別にきみが必要不可欠というわけでもないのだ。きみと同等の剣術遣いはいくらでもいるし、きみと同等の神権の使い手も禁軍にはいる。おっと、神権の使い手に関することは、神権教会には話さないでくれ。御使などもっての外だぞ。もし知られれば、奪われかねん。秘蔵っ子、鬼子、隠し札、まぁ、どう表現してもいいが、秘密なのだ」
ペラペラとよく喋る男だった。見た目に似合わせず、口は軽い。
もっとも、それはこの茶店が禁軍の管轄下、もしくは管理下にあるから喋れるという面はあるだろう。どこの誰に聞かれているともしれない場所では、こんな話はできない。神権教会の信者こそどこにいるかわからないのだから。
そう、その点を突き詰めると、禁軍がこうして俺に接触しているのは、やや非合理的だ。
俺が完全に神権教会と切れた、と禁軍は判断したのだろうか。どういう情報を手に入れて、そんな結論に至ったのか。
違う。逆だ。
気づいてしまえば、簡単な理屈だった。禁軍は俺が神権教会とどういう形であれ、繋がっていることを見越している。俺と禁軍が接触することをわざと神権教会に意識させ、揺さぶりをかけているのではないか。
もし神権教会が俺に固執するようなら、俺が禁軍になびくのを止めようとする。もしかしたら強権的な態度に出るかもしれないし、秘密裏に処理しようとするかもしれない。どちらにせよ、その神権教会の動きを、禁軍は観察しているか、もしくは、何らかのきっかけにしようとしていると考えられる。
エイグリアに、神権教会、禁軍、騎士団が俺をそれぞれ狙っていると聞かされなければ、俺の立場はややこしくなったかもしれない。知っていればこそ、三者のどこにも属さない立ち回りができる。あるいはそう立ち回らせることが、エイグリアの属する騎士団の意向ということもありうるが、とにかく、俺自身にささやかでも状況を制御する可能性が残されている。
「禁軍は楽しいぞ。それは間違いない。体験入団はいつでも歓迎だ。皇都見学も案内付きで付属している。どうかな?」
俺は首を左右に振った。
それだけで伝わるはずだと思ったが、実際、男は納得したようだった。
「それは残念だ。しかし気が変わったらいつでも訪ねてきてくれ。歓迎するよ」
ではな、と男が席を立つ。そのまま彼は振り返らずに部屋を出て行く。代わりに店のものらしい女性がやってきて「何か召し上がりますか」と確認してきた。声が出そうにないので、首を左右に振って、俺も席を立った。
表に出ると、もう夕方と言ってもいい頃合いだ。
砦へ戻るか。表の通りにはもう、俺を監視する気配はなかった。もちろん、俺と話しながら最後まで名前を明かさなかった禁軍の男の姿もない。
砦へ向かおうとした時、その人物は往来の中央に真っ直ぐに立っており、夕日を背にしている。その様子は、神の祝福を受けているようでもあったが、進み出てくるその服は僧服であるのだから、神の祝福を受けているというのはあながち、間違いでもなかっただろう。
俺は俺で足を止めて、男を待ち構えた。
僧服の男は細身だが上背があり、手足がいやに長く見えた。
俺とその男が発散する気配のせいだろう、往来にいた様々な人が足を止め、圧迫感からか、通りの端の方へと逃れて行く。
そんなぽっかりと出来上がった不自然な空間で、俺と男は向かい合った。
「アルタ・ハルハロン、神権教会に敵意のあるやなしや」
朗々とした声は大きくはないが、よく聞こえた。
俺は「ない」と軋んだ声で答えた。僧服の男は重々しく頷いた。
「では、神権教会においてその力を振るうがいい。破魔の力にふさわしい立場が与えられるだろう」
「俺は」
掠れる声を発するたびに喉が痛み、さらに声が枯れていくが、俺は言葉を続けた。
「どこにも属するつもりはない」
僧服の男は、しかし怯みも戸惑いもしなかった。俺の返答は、予想の範疇だったのだろう。
「では、アルタ・ハルハロン。お前は剣を捨てるということか」
剣を、捨てる。
それもできるかもしれない。
できるかもしれないが、問いかけられるまで、想像もしなかった。
今、俺の腰には剣はない。砦に収容され、御使と対面する途中で没収されたままだ。砦へ戻って、なんとか回収するつもりではいたが、丸腰となると、精神状態も変わってくる。
どうやら俺は、剣を捨てられないらしいと、こうなって初めてわかってきた。
今、剣を持っていない自分が、無力だとはっきり感じるからだ。
剣を持たなければいられない人間。
「剣は」
俺の声はもう、掠れ切ってほとんど消えていたが、言葉を吐き出す。
「剣は、捨てない」
「捨てよ、と命じられれば?」
「誰も、俺には命じられない。聞く気がない」
俺には、帝国騎士団も、禁軍も、神権教会も関係ない。
この世界の何もかもが、俺とは無関係なのだ。
あの荒涼とした戦場、殺意と憎悪が満ちる戦場以外は、俺には馴染みのない場所だった。
あの戦場で育ち、ずっと戦場で、生きてきた。
やっと俺は、自分が戻るべき場所を悟ったような気がした。
その気配に気づいたのだろう、僧服の男が小さくため息を吐くと、一歩、二歩と踏み出してくる。その途中で、彼は腰の後ろに吊っていた鞘から、両手で短剣を抜いた。
剣を帯びていることは察していたし、神権兵団だろうとは思っていた。
しかし実際に刃を構えるその姿を見れば、とても並の使い手ではない。周りにいる無関係なものも、悲鳴をあげるでも、逃げるでもなく、息を飲んで動きを止めていた。逃げること、怯えることさえも諦めさせる気迫があった。
「武器を持たぬ者を殺すのは性に合わないが、仕方あるまい」
不意に僧服の男の姿が搔き消える。
見えない。
しかし俺の中の想像力が、男の動きを予想していた。
魔物との激しい戦いの中で、俺の視界には無数の線が明確に描かれるようになり、その線を見誤らなければ、動きの先読みさえもが可能だった。
神権とはやや異なる、極端な感性が、今、俺を救った。
驚くべき足の送りで気づいた時には左後方に立っている男は、見えないが、見えたのだ。
視界の隅で銀光が閃き、それさえも無数の線となる。
線が見えれば、それでいい。
体を無理矢理に傾ける。
一撃で首をはねに来た刃の、その切っ先が肌をかすめるが、それだけのこと。
地面に転がり、距離を取る俺に、僧服の男がこれまでとは違う、強張った表情で鋭い眼光を向けてくる。
「見えるわけがない。避けられるわけがない。しかし今、お前は生きている」
構えが変わり、力が溜められるのがわかった。
「その力、見せてもらおう」
僧服の男が動き出す。
右だと見せて、左、と見せかけて右。
二本の刃が複雑な軌跡を描き、腕、そして足を狙ってくる。
線を見失わないことだ。
そして、想像力を失わないこと。
男の剣は洗練されている。だから動きも、刃の走る筋も、無駄がなく、最適化されている。
男との間合いを適切にとることを意識し、刃は紙一重で避けていく。
着ている着物があっという間にズタズタになった。血飛沫が地面に細かな斑点を生んでいく。
死ななければいい。
どこかで凌げるはずだ。
「甘いですね」
声は、聞こえない場所からした。
男の声。いるはずのところにおらず、いないはずのところにいる。
見失った? ありえない。線は読み続けていた。
違う、こちらの動きを読まれたのだ。
先読みの裏をかかれた。
迂闊さを嘆く余裕はない。刃が翻り、首筋と胸元、両方を狙ってくる。
両方は捌けない。
しかし片方だけでも致命傷だ。
敗北。
死ぬのか?
死を覚悟することは、いつの間にか縁遠いことになっていた
ずっと、ずっと、不死だったのだ。死ぬことは日常でさえあった。
今は一つしか命はない。
諦めるわけにはいかない。
何もできない人間だとしても。
必死の攻撃に反応できたことに、俺自身が驚いた。
足が地面を噛み、上体のささやかな動きが大きな動きへと変換される。
後になってみればわかる。
それは、俺が亡霊から教わった剣術の発展の一つの形だった。
胸を引き裂かれ、首も切られたが、どちらも浅い。
そして間合いが再び生まれ、仕切り直しとなった。
「解せませんね」
僧服の男はいつの間にか汗にまみれている。ここまでの攻防は、一方的なものでもなかったのだ。
両者はほぼ拮抗している。
ただ、俺には得物がなく、それが覆しがたい不利には違いない。
剣があれば。
願ったことが現実になる、という経験がこの時に起こったのは、ある意味では必然だったし、ある意味では幸運だった。
どこからか飛来した抜き身の剣が、俺のすぐ目の前に突き立ったのだ。
僧服の男の鋭い舌打ち。その姿が最高級の足の捌きで幻のように消える。
俺は同時に剣を手に取っていた。
誰のものかもしれない、見たこともない剣。
俺に味方するものがいること、剣を貸す者がいること。
それだけで十分だ。
大地から抜いた剣が躍動し、超高速の二振りの短剣による連続攻撃を凌いでいく。
それはまさに術、剣術というより芸術だった。体の力が全て無駄なく発揮され、体の動きがそれを桁外れに増幅する。
極端に無駄を切り詰めた技は、もはや神業と言ってもいい。
その刃の暴風の中心で、俺はひたすら剣を振るった。
受け損なえば、今度こそ死ぬ。
奇跡はもう起きた。そして十分に俺を救った。
あとはもう、実力しか残されていなかった。
初めて手に取った剣が馴染んでくる。体は亡霊の叩き込んだ技を思い出してくる。
極限の攻防が破綻する局面が、ついに出来した。
短剣を払いざまに、俺の手の中の剣がわずかに差し込まれる。
その切っ先は狙い澄ましたように、僧服の男の手首に触れんばかりに近づいた。
動きを停止し、牽制の振りを残して僧服の男は距離をとった。
俺も彼も、全身が汗に濡れ、湯気さえもが上がっていたが、お互いに息は乱れていない。
俺は全身の痛みを意識の外に追いやった。今は集中、そして感覚の精確さが何よりも求められた。
両者が動かない時間は、どれほどの時間だったか。
両者が、示し合わせたように地を蹴った。
空気が重く、粘つくように感じられる。
剣がそれを、鮮やかに切り裂いていく。
僧服の男が間近に見え。
その剣が停止して見え。
俺の剣もまた停止し。
世界が完全に停止した瞬間に。
俺は勝利を確信し。
同時に敗北を悟り。
それでも世界は再び動き始め。
俺の手には相手を切り裂く感触があり。
首元を最初は極寒の、次に灼熱の気配が走り抜けて行った。
(続く)
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