第37話

       ◆



 エイグリアは俺を基地都市の市街へ連れ出してくれた。

「先にこれを渡しておく」

 そう言って手渡されたのは、剣があしらわれた小さな首飾りだった。

「それが帝国騎士団の身分を証明するが、小さな赤い玉がついているだろう。赤は客人を示す色だ。一応、お前は私の客人となったわけだ。それで砦のおおよそのところに出入りできる。ただ、神権教会の領域は無理だがな」

 俺は手の中の飾りを、素早く首につけた。

 二人で向かった先は、過去に何度も使ったことがある料理屋だったが、俺は銭を持っていないのに店に入る寸前まで気づかなかった。北部戦域では銭など存在しない。

 銭が手元にないことを伝えたいが、まだ声がうまく出ない。呻くしかない俺に、しかしエイグリアは敏感に心情を察して、応じてくる。

「銭の心配はするな。ここは私が払うし、お前に貸すくらいの財力はある。いくらでも使っていい、というほど裕福ではないがね。さ、なんでも食ってくれ。と言っても、なんでもある店ではないか」

 店は一般的な食堂で、立ち込める匂いは食欲を刺激するはずだが、俺は自分がそういう当たり前の反応をしないことに即座に気づいてしまった。

 まともな食事など、ずっと食べていない。

 食べていたのは、魔物の肉だった。それも生のまま、血の滴る肉を食べていたのだ。

 エイグリアがいくつかの注文をして、世間話をするように自分のことを話し出した。

「あれから色々あってな。数え切れないほど戦闘に参加して、まぁ、相応に部下も失った。俺は生き残って、そのうちに百人隊の隊長を任された。あとは、戦死者の数を数えるような日々だったよ。憂鬱で、気が塞ぐ日々だ。もううんざりだと思った頃、帝国騎士団が俺を正式に団員に昇格するといってきた。銭なんか少しも払っちゃいないが、それより重大な、部下の命が支払われていたようなものさ」

 先に酒がやってきた。俺の前にも器が置かれる。手に取り、舐めるように飲んでみると、喉が文字通り焼けた。咳き込み、そんな俺の様子にエイグリアが笑う。

「ゆっくり飲めよ。話題は十分にあるし、まだ昼間だ」

 俺はただ頷いて、もう一度、少しだけ酒を口に含み、苦労して飲み干した。

 エイグリアはといえば優雅に器を傾けながら、話を続ける。

「俺は多くの犠牲の代わりに騎士団員になり、しかし中央へは戻してもらえなかった。北部戦域の防衛軍の司令部に勤めている形で、一応、三人いる千人隊の隊長という立場だ。もっとも、千人の規模の防衛軍を統率する事態は今の所ないな。千人隊の隊長っていうのは、実戦ではなく、隊の運用を効率的にするような役職で、私も、なんというか、偉くなったものだな」

 彼は一人で笑っていて、俺はそんな様子をただ見つめていた。

 俺が知らない間に、人は変わっていた。

 きっと、俺自身も変わっただろう。

 しかし世界は、社会は変わらない。それは器は変化しないのに、その中身が変化するようなものか。器は頑丈で壊れないが、中身は入れ替えられていく。

「私の力でも、お前の居場所はわからなかった。だから、今回、いきなり隊を派遣して乙種流刑者を救助する任務を実施しろと言われた時は、驚いたよ。神権教会は目的地を指定してきた。そこに何もなかったらどうする、と問い詰めると、御使は正しい、の一点張りさ。もし空振りに終わったら落とし前をつけさせてやると息巻いていたが、実際にお前が連れ帰られてきた。驚いたな。神権教会の御使の神権は、まさに神の力か」

 俺はただ頷いた。

 北部戦域の外れで、何度も魔物に食い殺された俺からすれば、御使はまさに神だ。命を自在に操り、肉体の限界を狂わせ、この世界の原則さえも捩じ曲げる力が、御使にはある。

 ただ、それが行使されるのはごくごく限られた場面だけだ。普通の民は、御使の存在は知っていても、御使の力を目の当たりにすることはない。

「ミリーナについて、聞きたいか」

 さりげない口調でそう言葉を投げかけられ、俺は俯けていた顔を上げた。

 ミリーナ。レイスによく似た少女。

 ずっと、思い出すこともなかった。

 俺の様子は、言葉以上に如実に内心を表明したのだろう、エイグリアが真面目な顔で頷く。

「二年ほど前、総菜屋に食品を下ろしていた商人の元に嫁いで、今は別の街にいる。俺が知っているのはそこまでだ。きっと幸せに暮らしているだろう」

 そうか、と言葉が漏れたが、うめき声にしかならなかった。

 幸せになってくれたならいい。俺にはできなかったことを、現実にしてくれた人物がいるのは、俺にとっても嬉しかった。俺にはきっと、ミリーナを幸せにはできなかったはずだから。

 剣しか扱えず、戦いの場でしか生きてこなかった俺には、誰も幸せにはできないはずだから。

 料理が運ばれてきた。さあ、食おう、と空気を変えるように言葉にして、エイグリアが料理に手をつけ始める。俺も手を伸ばした。

 肉があり、魚があり、野菜があり、米があった。様々な味付けがあり、様々な調理法で料理されている。

 上等な食事なんだろう。

 けれどやっぱり、俺には味がわからなかった。塩気も、甘みも、辛味も、酸味も、よくわからなかった。感触もどこか不快だった。

 それでも食べるのは、これが本来の食べ物だと、どこかが覚えているからだ。

 もっと、いろんなことを思い出せるだろうか。

 俺はまた、人間に戻れるだろうか。

 食事がおおよそ済んだところで、エイグリアがぐっとこちらに身を乗り出して、不意に低い声で言った。途端、空気に張り詰めたものが生じるのがわかった。

「アルタ、実は私がお前にこうして接触するのには、いくつかの理由がある」

 俺はエイグリアの目をまっすぐに見た。

 そこにある真剣な色には、俺の身を案じる気持ちが見えた。

「実はな、お前を乙種流刑から戻したのは、権力闘争が絡んでいる。お前をここへ戻したのは、神権教会の意図が強い。帝国側は、カーバイン侯爵を死なせたことを理由に教会の意図を封じようとしたが、帝国が別の発想を取りつつあるんだ。それは、お前という戦力を自分の側へ取り込もう、という意図だ。神権教会のものになりそうなら、先に横から掻っ攫おう、ということさ」

 俺を欲しがる理由は不鮮明だが、わからない理屈ではない。ただもう、俺は不死者ではないはずで、死ぬ時には死ぬ存在だ。そこを加味されているのだろうか。

 エイグリアは落ち着いた口調で続ける。

「お前は意外に有名人で、人気者ってことさ。すぐにどこかの誰かが声をかけるだろうと思って、私はこうしてお前に真っ先に当たってみた、ってことになる。アルタ、防衛軍に入れ。そうすれば、北部戦域にいる限り、私がなんとか手を回せるし、北部戦域を担当している防衛軍の司令官も、俺を支えてくれるはずだ」

 エイグリアの言葉に、俺は答えなかった。声が出ないからではなく、ただ、黙った。

 そしてじっとエイグリアを見た。

 その瞳に、寂しさのようなものが浮かぶ。

「断るつもりか。しかし私を信用できない、というわけではないらしい。だろ?」

 こくりと頷いて見せると、エイグリアも頷く。

「お前のことは不思議とよくわかる。私も無理強いはしない。ただ、何かあったら頼ってくれ。力になる。戦力としてとか、兵士としてとかではなく、友人として、だ」

 ああ、となんとか声を出して、俺はまた頷いた。

 食後のお茶を飲み、エイグリアは、父親から結婚をするように圧力をかけられているとか、中央へ戻る方法がないとか、そういうことを嘆き、最後に「いつの間にかそういう歳さ」と締めくくった。

 俺はいったい、どれくらいの時間、戦場を彷徨い、戦い続けたのだろう。

 二人で店を出た時には、日がだいぶ傾いていた。

「砦に部屋を用意するから、そこで休め。そしてこれからのことを考えておけ」

 エイグリアがそう言って、一歩を踏み出した時だった。

 俺たちの前に一人の男性が進み出てきた。長身で、どうしていきなりそこに現れるまで存在を察知できなかったか、不思議だった。エイグリアが足を止め、俺も足を止めた上で、すぐに動ける位置に構えていた。

 相手は低い声を向けてくる。

「アルタ・ハルハロン。少し、時間を作ってもらえないだろうか」

 答える前に反射的に周囲を確認した。

 こちらに向く視線、注意を感じる。いつの間にか取り囲まれているようだ。全部で、十人ほどか。エイグリアもそれを察知したようだが、まさか往来で剣を抜くわけもいかない。ただ、俺たちを囲んでいるものには殺気はないようだ。

 目の前の男がもう一度、「話をしたい」と繰り返す。

 エイグリアが反論しようとすると不意に男が首から下げている飾りを指でつまんだ。

「エイグリア・ラクトック殿、私の所属がわかるだろう」

 エイグリアが小さく息を飲む。名前を知られていたからではなく、飾りに驚いたようだ。俺にはよくわからない。その俺にエイグリアが囁くように言った。

「盾をあしらった飾りは、禁軍のものだ」

 禁軍?

 どうやらエイグリアが言っていた、俺に用事がある連中の一人らしかった。

「エイグリア殿は、先に戻られよ」

 かすかに身を強張らせてから、エイグリアが身を引いた。

 男が「こちらへ」と促すので、俺はエイグリアに視線で頷いておいてから、男に続いた。エイグリアの元へ戻る、という意思は通じただろう。エイグリアも追ってくることはなかった。

 名前も知らない男は、そのまま近くの茶店に入った。二階建ての建物で、店のものに何も言わずに、店のものも何も言わずに、男は勝手に上がり込んでいく。店自体が禁軍とやらの関係者が運営しているのかもしれない。

 二階の一室は、無人だった。卓を挟んで二人で向かい合うと、すぐに茶が出された。菓子も添えられている。焼き菓子で、かすかに甘い香りがしたような気がしたが、意識しようとするともう感じ取れなかった。

「アルタ・ハルハロン殿。単刀直入にお願いする」

 男はまっすぐにこちらを見る。よく見ると顔の造作はどこか愛嬌がある。おおらかで、しかし強い意志が感じられた。

「禁軍に入っていただけないだろうか」

 俺は黙って彼を見ていた。

 俺には行く先がない。しかし、こちらへ来いというものがいる。

 俺は、どこに向かえばいいのだろう。

 どうか、と男が問いを重ねてくる。しかし急かすような発音ではない。

 俺はじっと卓を、そこに置かれた茶の入った器を見た。

 心は落ち着いている。

 俺は顔を上げて、男の顔に視線を向けた。



(続く)

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