第36話
◆
どれくらいの時間が流れただろう。
ある時、不意に人の気配を感じた。
その時の俺も魔物の群れの只中で、ひたすら剣を振るっていた。大勢の人間に魔物の群れが包囲され、人間の兵士に効率的に突き倒されていくのを見ながら、それでも俺の剣は動き続けた。
最後の魔物の首が飛び、戦闘は終わった。
俺は剣を下げたままぼんやりと目の前に立つ兵士たちを見た。どこかで見た具足。防衛軍の装備だったか。何故、俺を助けるのか。ここで何をしているのか。
「アルタ・ハルハロンだな」
兵士たちが道を作り、そこを壮年の男性が進んできた。知らない相手だ。男は俺の前に立つ時、土気色の顔をしていた。いや、それは俺が殺気を緩めないからか。しかし殺気を立ち上らせている自覚はない。これが普通なのだ。
俺は答えようとしたが、喉がこわばって、うなり声のような声が漏れるだけだった。
しかし男はそれを肯定と正確に読み取ったようだ。
「神権教会からの指示で、乙種流刑者であるアルタ・ハルハロンを北部戦域から連れ帰る任務についているのだ。あなたをこれより、北部基地都市へ連行する」
何を言われているのか、すぐには理解できなかった。言葉の内容が、ではなく、人間の言葉を聞いたのははるか昔だ。記憶の中から言語にまつわるものが浮かび上がってくるのに、かなりな時間が必要だった。
しかし、連れ帰るとは、どういうことか。
兵士たちが恐る恐るといった様子で俺に近づいてくる。その中でも勇敢なのだろう、ひとりがすぐそばまで近づき、「こちらへ」と俺の背中に触れた。
俺はといえば、自制心の限りを尽くして、振り払いたい衝動をこらえていた。
俺が許される理由などない。なら、基地都市へ戻すのも何かの陰謀なのではないか。
しかし、ここで人間を切ってしまえば、俺は本当の意味での罪人となる。
一歩、二歩と足を踏み出し、俺は歩き出した。その周囲を幾重にも囲んで、兵士たちが進む。
夜営になり、食料が配られた。ただの粥だったが、俺にはそれを見ても、今の自分の立場が幻覚だとしか思えなかった。粥? そんなものが何故、俺の手元にあるのか。
いつまでも食べようとしない俺を兵士たちは興味半分、恐怖半分で眺めているようだった。
結局、粥は食べられなかった。空腹だったが、空腹にはなれているし、死ぬことはないのだ。
そんな夜を何度も繰り返し、そのうちに空は高くなり、大地には草が芽生え、進む道も道と言っても差し支えない程度に変わっていった。
そしてある日、俺はそれを目にした。
城壁。
基地都市だった。
戻ってこられるとは思わなかった。しかし実際に俺はここまで戻ってきた。兵士たちの間にも弛緩した空気が流れる。それがここは安全なのだと、何よりも強く俺に訴えていた。
道を進むうちに、城壁の門が開かれていること、沿道に市民が並んでいることがわかってきた。
歓迎されるとは思わなかったし、実際、歓迎はされなかった。
兵士に取り囲まれたまま進む俺を見る市民の顔は、兵士たちが俺に見せた顔とそっくりだった。
好奇心と、怯え。
乙種流刑の受刑者がこうして基地都市へ戻ってくることなど、前代未聞だろう。
もっとも、俺は体を洗ったわけではなく、服を着替えたわけでもない。ボロ切れが体に引っかかり、体は垢まみれ、髪の毛も長く、髭も長い。不潔で、浮浪者のようにしか見えないだろう。
城壁をくぐると、人の数は増え、そこここで囁かれる言葉が、ひとつひとつは大きな声ではないのに、合わさるとざわめきのようになる。
そんな喧騒の中を、俺は進んでいく。
砦の正門が見えてきた。そこには兵士が待ち構えている。俺を迎えに来たものとは具足が異なる。帝国騎士団のそれだ、と記憶の中の情報と結びつく。
俺を護送してきた隊の将校が帝国騎士団の将校の前で敬礼し、何事かを伝えると、俺の身柄は帝国騎士団の男たちに引き渡された。
そのうちの一人が堂々とした態度で俺の前へ来ると「身支度を整えていただきたい」と言った。どうやら今のままでは御使には合わせられないらしい。
俺は投げやりな気持ちで頷いたが、男は嬉しげに笑い、俺を案内し始めた。もっとも騎士団の団員が六人ほどで俺を囲んでいるので、警戒していないわけではない。
そこから風呂に連れて行かれ、待機していた下男に全身を洗われ、髭を剃られ、髪の毛を整えられた。
全身を拭われていく中で、下男が恐らく無意識にだろう、「凄い体だ」と小さな声で呟いた。
休みなく剣を振り続けたのだから、体つきも変わろうというものだ。
風呂を出る時に新しい着物が用意され、それに着替えた。剣は厚手の布に包まれている。亡者から奪った時よりも、魔物の血をさらに浴びたことで、ただの剣ではなくなっている。俺は神権の作用で扱えるが、他のものは触れることもできないだろう。
また騎士団の男に引き渡され、次は僧服の男に引き渡される。
俺は知っている顔をそれとなく探したが、一人もいなかった。それだけの時間が過ぎているのだろう。
通路を進むうちに、こちらは見覚えのある光景に行き当たった。
御使との謁見の間に向かっているのだとわかる。
その広間に入ると、確かに御使とその護衛が待ち構えていた。
御使は、やはり女のようだが、記憶にはない相手だ。紗幕で顔は見えないが、過去に目の当たりにした二人の御使より歳を取っている。
「そなたが、アルタ・ハルハロンか」
御使の言葉に、俺はただ頷く。言葉を発するのは難しい。そんな俺の態度に、怒ったり、叱責したりするものはいなかった。御使を差し置いて自分の意見を口にするなど、この場では許されないのかもしれない。
落ち着いた口調で、御使が続ける。
「よく刑罰に耐えました。あなたは誰よりも多く魔物を倒したと認められ、マーズ帝国は特赦を与えると決定しました。あなたは流刑者ではなく、市民として生きることになります」
意味不明だった。
特赦? そんなものがあるなどと、聞いていない。聞いたこともない。俺がどれだけの魔物を切ったかなど、誰が見ていたのか。御使がはるか彼方を見通す神権で、俺を監視し続けていたとでもいうのか。
解せない。どういう意図がある?
御使は俺の疑問など無視するように、話を先へ進めている。
「これより、私の神権により、あなたに与えられた不死を解除します。あなたはそれにより、人と同じように死ぬ存在へ戻るのです。ただ、不老に関しては本当の意味で解除するのは難しい。あなたはおそらく、人よりは長く生きるでしょう。あなたへの罰はそういう性質のものであり、あなたの罪は、そういう性質のものなのです」
いうなり、すっくと御使が立ち上がった。
俺が剣を手にしていることを、この女は知らないのか。
俺がここで、死を望んでいるような凶行に走らない確信があるのか。
まさか御使が不死なわけではあるまい。護衛が少し離れてついてきているが、こちらが剣を御使に叩きつける方が早いだろう。
俺の中にある憎しみ、恨みを知らないのか。
想像もできないのか。
御使はついに俺の目の前に来た。剣を振らずとも、掴みかかり、その首をへし折ることもできそうだった。
そうしないという確信がある?
馬鹿な。
馬鹿げている。
しかし結局、俺は行動しないのだ。
心の奥底で、安堵しているから。
もう戦わなくても良いことに。
解放されることに。
俺が凝視している中で、御使の指が額に触れる。
ゾワッと全身に鳥肌が立ち、一瞬、血の巡りが停止したような気がした。
次には嘔吐感が押し寄せ、俺はその場に何かを吐き出した。反吐にしてはどす黒く、血の塊のようにも見えた。
「これであなたは自由です」
御使はそういうと、元いた席へ戻ろうとし、その途中で振り返った。
顔はやはり、紗幕で見えない。
「これも私の口からお伝えしておきましょう」
御使は笑っているようだった。
「あなたが傷を負わせたカーバイン侯爵ですが、つい先日、亡くなりました。肩の小さな傷から肉体の腐敗が全身に広がり、それはそれは、苦しんだようですよ」
俺は何も言えなかった。
カーバイン侯爵が死んだ。
そうか。
復讐は、終わったのか。
「また会いましょう、アルタ・ハルハロン」
御使が席に着き、さっと手を振ると壁際に控えていた僧服の男が俺のそばに来た。導かれて俺は広間を出て、通路をただ歩いた。
歩きながら、思考だけが巡っていた。
俺はこれから、どう生きていけばいい。
何ができる? どこへ行ける?
腰の剣が重く感じられた。
通路を進んでどこへ向かうのかは考えていなかったが、不意に通路に出てきた男がこちらへ歩み寄ってきて、「彼は私が引き取る」と僧服の男に声をかけた。僧服の方は不服げだったが、相手が「こちらは帝国騎士団のエイグリア・ラクトック、千人隊長だ」と名乗ると、結局、俺の身柄は引き渡された。
僧服の男が去ってから、彼は頬を緩め、優しい目つきで俺を見た。
「アルタ、無事でよかったよ」
エイグリア。
俺はただうつむき、一人でに溢れ出る涙を袖で拭った。
友よ。
何故、俺のことを覚えているのだ。
俺のような存在のことを。
(続く)
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