第34話
◆
その日も俺は、北部戦域で魔物と相対していた。
戦闘が一段落となり、隊は野営を始めようとしていた。そんな中で、俺は負傷した部下の治療の際中で、その呼び出しにははっきり言って苛立った。
しかし全隊の指揮官からの出頭せよという命令には背けない。
血にまみれた手を拭う間もなく出頭すると、指揮官は「神権教会がお前を基地都市へ戻せといっている」と言い出した。苦り切った顔で、不快感を隠そうともせずに言葉が続く。
「お前が求めている人物が到着した、と言えばわかるとも聞いている。わかるか?」
はい、と俺は頷いたが、こんな展開になることはすっかり忘れていた。いつまでも北部戦域で戦っていることになりそうだ、と思いさえしていたのだ。
求めている人物、というのは一人しかいない。
カーバイン侯爵。
指揮官はそっけない口調で、部下はエイグリアに任せろ、と指示し、さっと追い払うように手を振った。
「戦友のつもりだったが、お客さんだったとはな。さっさと行け。護衛をつける余裕はない。食料と水だけは持っていけ」
俺は敬礼したが、奥歯が軋むほど歯を食いしばった。
屈辱だった。俺は命をかけて、ここで戦っている。それなのに、そうは見てもらえないのだ。こんな些細なことで。
俺も防衛軍の一員のつもりだった。どこにも目指すところがないとしても、ここで戦う日々に、充実と光を見ていた。
断じて、客としてここにいたつもりはない。
痛みと悲しみを感じながら、俺は部下の元へ戻り、基地都市へ戻ることを伝えた。今後はエイグリアの指揮下に入るように、とも。
エイグリアには、俺が自分で話した。エイグリアは驚いたようだが、飲み込みは早い。
「いつお前が戻ってきてもいいように、しっかりと守っておくよ。まぁ、癖の強い奴らだから私の言うことなど聞かないかもしれないが」
俺は笑って見せたが、うまく笑えただろうか。
俺が最低限の荷物をまとめているところを眺めつつ、エイグリアがポツリと問いかけてきた。
「戻ってくるよな?」
すぐに返事ができなかった。誤魔化しようのない沈黙の後、「ああ」と俺は答えたが、いかにもとってつけたような言葉、言い逃れのような言葉になった。
だが、エイグリアは深入りせず、「なら良い」とだけいって離れていった。
野営の準備が着々と進む陣地を、俺は一人で離れた。食料と水は、遠慮なくもらった。基地都市までどれだけ急いでも二日はかかるはずで、二日という行程に対して十分な分を確保できたのは、ありがたい。今更、少しの飢えや渇きなどには慣れていたのだが。
日が暮れかかり、さらに先へ進む。深夜になって短い休憩を取り、夜明け前にまた歩き出す。
次の一日は一人きりで、ただ歩き続け、日が落ちてくる頃になって前方に基地都市の城壁が見えてきた。すでに周囲は薄暗い。出撃した隊が夜間でもたどり着けるように、基地都市の城壁にはいくつかの塔が設けられ、そこでは明かりが眩く光っている。
俺は日が暮れてから歩くのをやめ、基地都市を示す強い光を、ただ見ていた。この時間では城壁の門は閉ざされ、誰も入ることはできない。防衛軍だけは例外で収容されるが、今の俺では無理だろう。
翌朝になって、俺は基地都市を目指して歩を進め、早い時間に城壁を抜けた。
基地都市はいつも通りの喧騒に包まれていた。中央の通りを進んでいくと砦が見えてくる。道は真っ直ぐではなくなり、幾重にも折れている。敵の侵入を前提とした防御のための構造だった。
砦の正門が見え、俺は門衛に十人隊の隊長としての証を提示し、そこを抜けた。
入ったところで、僧服の男が待ち構えている。ずっとそこで待ち構えていたようでもあり、俺が来る時期を把握していたようでもあった。
彼は俺に頭をさげると「御使様がお待ちです」と言った。俺はわざとらしく身につけたままの具足を見せてみる。
「こんな格好で、失礼ではないかな」
「お客人もお待ちですから」
そうか、とだけいって、俺は歩き出した。僧服が足早に俺の先に立ち、先導していく。向かう先は例の広間らしい。御使が誰かと接見するときは、必ずあの広間が使われるようだった。
広間に入ると、すでに御使は席に着き、隣に護衛が直立している。
そしてこちらに背を向けて、背の高い男性が立っていた。俺に気付いて、振り返る。
知らない顔だ。しかし着ている服は立派な代物である。最高級の生地に、細かな刺繍が施された豪奢なもので、優雅で、典雅だった。
表情には苛立ちがありありと浮かんでおり、目つきは鋭い。
俺は彼の横へ並ぶように進み出て、御使に一礼した。御使は「意外に早かったですね」と言ってから、俺の返事など待たずに即座に話を先へ進めた。
「アルタ、そちらにいるのがサザス・カーバイン侯爵。カーバイン侯爵家の当主です。カーバイン侯、そちらがアルタ・ハルハロンです」
御使の言葉に、不快感そのままにカーバイン侯爵が鼻を鳴らす。
「ハルハロンとは、御使様は妙なことをおっしゃる。確かに我が侯爵家とルード・ハルハロンの間には不幸な行き違いがあったかもしれないが、既に過去のこと。御使様のお言葉を受けてここまで参りましたが、この青年が私と対等に扱われる理由がわかりませんな」
俺がただ立っている一方、小さく御使は笑う。
「カーバイン侯爵。あなたのお祖父様の買った恨みが、アルタという青年になったのですよ」
「ですから、過去のことでしょう。ハルハロンなどという男と当家は、既に関わりはありません」
「カーバイン侯」
俺の口から出た言葉に、カーバイン侯爵の顔が一瞬、呆気にとられて、次には真っ赤になり、額に血管が浮き出る。
「小僧、お前に発言の権利はないのだ。黙っておれ」
「ルード・ハルハロンと俺の間には、大した繋がりはありません」
「黙れ!」
俺は腰から剣を抜いた。結局、鞘を用意できなかった刃を包んでいる布を解くと、さすがにカーバイン侯爵も血の気が引いたようだが、そこは貴族としての矜持か、その場に真っ直ぐに立ち続け、俺を睨めつけた。
「私を切るつもりか。出来るわけがない。大罪人となるぞ!」
「ルードは、人ではなくなりました。戦場を彷徨い続け、ただ憎悪と怨恨に支配される存在になったのです」
「わけのわからんことを。だからなんだというのだ!」
「この剣には、その呪詛が宿っています」
剣を構えてみせると、さすがのカーバイン侯爵が半歩だけ足を引いた。
俺は何をしようとしているのだろう。
間違ったことをしようとしているのは確かだ。
この貴族を前にした時から、何かが俺を突き動かしている。それはルードの残した感情かもしれないし、ルードから続くこの体に流れる血がそうさせているのかもしれない。
復讐など、何の意味もないと理解している。
しかし、罪を犯したものが、どうしてこうも胸を張って、恥ずかしげもなくいられるのか。
もちろん、目の前にカーバイン侯爵は、ルードが生きた時代には産まれてすらいない。俺だって、ルードが実際に生きていた時代には、やはり存在していない。
自分とは無縁のはずの過去にあったことが、どうして俺をこれほど熱くさせ、思考を焼くのか。
「剣を下げよ、ハルハロンの子よ。不敬であるぞ!」
侯爵の怒声に、俺は剣を下げなかった。
その時には壁際に控えていた武装した男たちがこちらへ進み出ようとする気配があった。おそらくカーバイン侯爵家の私兵だろうが、俺とカーバイン侯爵が近すぎるためか、間合いを潰す機を逸している。
切ることなど、造作もない。
その理由がわからないだけで。
誰のためだろう。ルードのため? ウルダのため? それとも俺自身のため?
答えは見当たらない。
感情だけがある。
これが悪意なら、悪意とはなんと人間に身近なところにあるものか。
人間は悪意でできているのか。
「小僧!」
カーバイン侯爵が怒鳴る。
それが俺の中の細い糸を切ったようだった。
剣を振りかぶる。
カーバイン侯爵家の私兵が動き出すが、遅い。
御使は動かず、その護衛も動かない。
剣が振り下ろされ、切っ先が床に触れる寸前で停止する。
一歩、二歩とカーバイン侯爵がよろめき、尻餅をつく。その衝撃で着ていた上着が床に落ちた。上着は切り裂かれていた。
ひきつるような声を漏らし、カーバイン侯爵が自分の体を確認する。
その手が、かすかに赤く染まる。
肩口に小さな傷ができていた。
悲鳴を上げ、カーバイン侯爵が這って俺から離れていく。彼を守るはずの私兵がついに到達し、即座に防御の壁を作るが、カーバイン侯爵を守るだけで俺へは向かってこない。彼らは彼らで、危険を冒すつもりはないらしい。
「それまで」
やっと御使が声を発し、俺は剣を持つ手から力を抜いた。カーバイン侯爵はまだ悲鳴をあげ、のたうちまわっていた。私兵たちがその侯爵のそばに屈み、小さな傷の治療を始める。
他にも動きがあった。広間の扉が勢いよく開き、武装した僧服の男たちが入ってくる。教会の武力、神権兵団の兵士たちだった。彼らは俺を取り囲み、カーバイン侯爵の私兵とは比べ物にならない圧力を放射する。
「アルタ、剣を捨てなさい」
声の主、御使の方を見て、俺は剣を床に投げた。
やっと事情が飲み込めてきた。
「俺を追い込むために、全てが用意されたわけですか」
誰も言葉を発さない。しかし御使が微笑んでいるのはわかる。
「神権教会がカーバイン侯爵をここへ呼び寄せたのは、俺に復讐を実行させるためで、あなたには俺が行動することが予想できていた。カーバイン侯爵を殺しこそしなかったが、怪我を負わせた俺は帝国からすれば犯罪者となる。そして神権教会は、罰を避けるためには教会の庇護を受けよ、と言い出すわけだ」
「それは都合のいい展開というものです」
御使の声は笑いを含んでいる。
「あなたが復讐を遂げようと、遂げまいと、教会は痛くも痒くも無いのです。ただ、カーバイン侯爵が死ぬことになれば、相続に関して混乱が生じるのは必定。そこには利益がありますね。話が逸れましたが、あなたは自分のことを高く評価しすぎです。これは、俗な言い方をすれば、体面の問題です」
「体面……」
「乙種流刑は帝国が与える刑罰でありながら、神権教会が与える罰でもある。それが不完全なものだというのは、問題です。あなたは、あなたの祖先であるルード・ハルハロンの幸運で生じた罰を代わりにその身で受けるのです」
ルード・ハルハロンの幸福。
そんなものが、あっただろうか。
あの男に、幸福などあったはずがない。
そうか。やっと気づけた。
俺は、ルードの中にある怨念を、引き継いでいるのだ。知らないうちに。
俺は幸福の本質を本当には理解できず、しかし怨念は、理解している。
本能的に。
「アルタ・ハルハロン、あなたの神権は貴重なものですが、絶対に必要なものでもない。それでも恩情として提案しますが、神権兵団に入りますか? 拒絶するようなら、あなたはこのまま、帝国に引き渡します」
答えは決まっていた。
「罰は受ける。罰を与えた罰ならば、受けるのが当然だ」
立派なこと、と御使が低い声で言う。
「あなたが受ける刑罰の苦しみは、想像を絶するでしょうね。もはや、あなたはそれを避けられませんよ。どれだけ後悔しても、もう遅いのです」
俺は無言だった。
俺の剣は床に転がったままで、誰も拾おうとしない。
ただの剣だが、それは一〇〇年をかけて積み重なった呪詛を含んでいる。
その呪詛はもはや、向かう先もなく、純粋なる呪詛の結晶としてそこにあった。
俺が、ただの復讐の代行人になり果てたように。
俺の中にも結局、呪詛しかなかったのだ。
神権兵団の兵士たちが距離をとり、そこへまず医者が駆け込んできて、次に砦に駐屯している兵士がやってきた。医者はカーバイン侯爵に治療を始めたが、俺はそれを眺めている間もなく、兵士たちに拘束された。
御使は最後までその場に残っていたようだが、やはり俺にはそれを見ていることはできなかった。
俺は罪人となり、裁かれる。
それはルードが辿った道と同じだ。
過程は違い、その先へ進んだとしても、結局は同じ結末に行き着いたのだった。
(続く)
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