第30話
◆
目が覚めて、自分がどこにいるのか、すぐにわからなかった。
慣れない柔らかい布団、高い天井。視線を巡らせると、壁も高級そうな木材が張られている。磨き込まれ、艶やかに光を反射していた。
見慣れたぼろ家ではないし、露天でもない。
そうか、北部基地都市にたどり着き、そこで神権教会が割り当てられている部屋に泊まったのだ。
そこまで思い出して、やっと御使の言葉を思い出した。
カーバイン侯爵とは会いたくない。どうしてあの場で、そう言えなかったのか。
俺の中には意識できない感情が宿っているということか。それは例えば、ウルダや、ルードの仇を討ちたい、というような?
馬鹿げていると言いたかった。言いたいけれど、何かにつっかえて、うまく吐き出せない。
上体を起こし、首を振ることで思考を遠くへ追いやった。
昨夜、この部屋へ案内してくれた僧服の男は、俺に十字架を握らせてきた。神権教会のシンボルだ。
「これを持っていれば、あなたは正式な神権教会の客人となります。砦の中ならどこへでも出入りできますし、砦を出ることも自由です。しかしこれがなければ、砦へ入ることはできません」
便利な身分証もあったものだが、何も言わないでおいた。
それよりも、幾分、真剣な顔で男が付け加えた言葉の方が重要だった。
「あなたの所有している剣ですが、手元に置き続けていただきたいのです。それはあなた以外が手にするべきではない。それが神権教会の考え、総意とご理解ください」
眠りにつくまでその言葉の意味を吟味したが、剣に宿る呪詛のことを言っているのだろう。俺がこの剣に触れていられるのは破魔の力があるからで、それは管理可能なものがとりあえずは俺しかいない、ということでもあるかもしれない。
どこかに捨てる気もないし、身につけているつもりだったが、そうか、砦の中で武装しているのも変なのかもしれない。少なくとも兵士たちには、砦や街では剣など身につけさせない方が何かと安全だ。
身支度を整えようとしたが、ここまで着てきた着物以外は、部屋の戸棚に僧服が畳まれて入っているだけだった。気が利くようで、気が利かないじゃないか。
仕方なく僧服を身につけたが、丈はぴったりだ。なんとなくため息が出てしまう。
適当に着崩して首から十字架を下げ、部屋を出てみた。通路は静まり返っていて、人はいない。とりあえずは腹が減っているので食堂の場所を知りたいのだけど、誰に聞けばいいのか。
僧服で剣を帯びているちぐはぐさに落ち着かないものを感じながら、俺は通路を進んだ。
ちょうどよく、前方から男性が歩いてくる。助かった、これで食事にありつけそうだ。
「すみま……」
声をかけようとして、思わず途中で言葉が止まってしまった。
相手も驚いている。
「エイグリアさん?」
「アルタじゃないか」
平服姿のエイグリアが、困惑顔から笑顔に変わって近づいてくる。
「なんだい、その格好は。神権教会に入信したのか?」
「まさか。他に着る服がないだけです」
エイグリアは苦笑いする。
「だろうな。そんな僧服の着方をしていたら、懲罰の対象になるぞ。十字架だけは本物らしいが、何か教会には事情があるのだろう。で、こんなところで何をしている?」
どうも引っかかる内容もあるけど、とりあえずは本題に入れそうだ。
「食堂を探していて。教えていただけますか」
「食堂? 私も行くところだよ。一緒に行こう。目立つだろうが、もともとお前は目立っていたからな」
言いながらエイグリアが歩き出すが、俺が歩いてきた方向へ戻る形で進んでいく。つまり俺は逆方向へ進んでいたらしい。
「私が教えた宿が気に食わずにここへ来たのか?」
歩きながら、エイグリアが話題を投げてくる。どこからどう見ても冗談だが、彼としても俺の立場が気になるのだろう。いきなり砦の中に浮民が入れる道理がない。
「いいえ、宿へ行って部屋を取ったのですが、教会からいきなり迎えが来て、ここへ連れてこられたんです」
「教会が迎えに? 北部戦域をフラフラしているから変な奴だとは思っていたが、教会に目をつけられていたのか」
「みたいですね。まったく知りませんでした」
「教会は秘密主義だよ。私も、他の将校、百人隊長はもちろん、千人隊長だって教会の真意は分からんさ。教会がここにどれくらいの兵力を置いているか、それさえも知らないんだ」
俺はちょっと首を傾げた。
「兵力って、神権兵団の事ですか?」
「そう。いざという時に御使を守る兵隊、ということなのかもな。少なくとも、神権兵団が防衛軍に助力したことはない。おそらくこれからもないだろう」
エイグリアの口調には忌々しさが如実だった。
そんなやり取りをしているうちに食堂についた。広間の一つで、卓が幾つも並んでいる。まだ時間が早いのか、空席の方が多い。数人がこちらに気づき、指さすものもいた。視線に関して言えば、俺を歓迎するような色の視線は一つもなかった。
いっそ超然と歩を進めるエイグリアについていき、食事を受け取った。料理人ですら、俺を懐疑的な視線で見ていた。
「教会の連中は自前の食堂を持っている。だからここでは僧服は珍しいのさ」
エイグリアはそう言ったが、何の慰めにもならない。
今日のうちに平服を用意するとしよう。
卓について食事になったが、エイグリアは真っ先に俺の出自について確認してきた。
「どうやら流刑者が祖先にいるようで、でも、自分じゃよくわからないんです」
やや嘘が混じっていたが、エイグリアは隠しきれなかったらしいわずかな驚きで目を見開いていた。
「流刑者? まさか、乙種流刑か?」
「みたいですね」
「流刑者は何度か見たことがあるが、あれは酷い刑罰だ。死ぬまで戦わせるというが、実際は人間性を奪う刑罰だからな。人が人に与える罰ではない。もっとも、御使は唯一神の一部という建前があるから、神が人に罰を与えているのかもしれないが」
どうもエイグリアにはエイグリアなりの教会、御使の認識があるらしい。
「それにしても、北部戦域の外れで生活している浮民の存在は知っていたが、もっと野蛮人を想像していたよ」
思わず俺は笑っていた。
「みんな、平凡ですよ。控えめで、苦労しながら、それなりに生きています」
「私たちは防具を失っては商人から買い直して、いつも圧迫されているよ」
今度はこちらが苦笑いだ。
「そうしないと、俺たちは生きていけませんから」
わかっているよ、とエイグリアは頷いている。
俺の方でも彼の出自が気になってきた。
「エイグリアさんは、どちらの出身ですか?」
「親は南方の出身だが、私は皇都育ちだ。ちなみにこれでも巡爵だよ」
「巡爵? それがどうして、北部戦域に来ているのですか?」
「きみは正直だな、アルタ。理由は簡単、中央では居場所がないからだ」
疑問が顔に出たのだろう、エイグリアはざっくりと説明してくれた。
「父親は子爵だ。しかし大した実績もなく、領地もない。で、俺はその妾の子だ。本当なら準爵位など与えられず、どこかに捨てられただろう。しかし俺には剣の腕があった。必死になって身につけた技だが、父親はそれに目をつけた。俺が帝国騎士団に入るにあたって、人脈と銭を総動員して、巡爵とした。つまり身内が帝国騎士団にいる、という立場を生み出したわけだ」
「エイグリアさんが帝国騎士団で出世すれば、お父上も立場が強くなる、ということですか」
「かもな。実際には俺は帝国騎士団に入ったが、準団員という待遇しか与えられなかったし、すぐにこうして北部戦域に送られ、十人隊の隊長だ。いつ死んでもおかしくないし、むしろ死ねと言われているようなものだ。これでも実力で騎士団に入ったんだがね」
「えっと、それはエイグリアさんのお父上の考えを、帝国騎士団が拒否している、という意味ですか」
「他にどんな意味がある? いや、私の妄想かもしれないな。私の実力が実際には不足しているのかもしれない」
俺は頭の中で基地都市へ来るまでのエイグリアの様子を思い返した。
決して技術がないわけではないし、勇敢だったはずだ。不当な評価を受けている、と見る方が自然な気がする。
それにしても、帝国騎士団の存在は知っていたが、実力だけで入ったり、地位を上げていくのは難しいらしい。
別に俺自身が帝国騎士団を志望しているわけではないし、こうなっては、俺が入ることは難しそうだ。かといって、神権兵団に入りたいかと言われれば、入りたいとは思っていない。
いったい、俺はどこに落ち着けばいいんだろう。
食事が進み、皿が空になったところで、二人で席を立った。
「これからどうするつもりだ、アルタは」
エイグリアの言葉に、買い物に行く、と答えた。
「服を買わないと、僧服はさすがに目立ちますし」
「そうか、付き合ってやろうか。店を何軒か知っている。どうせ、どこにどんな店があるか、わからないだろう」
「助かりますけど、エイグリアさんは何か用事があるのではないですか?」
「昨日が祝宴で、今日は休暇、報告会は特に緊急の事案もないので定例通りなら明日。つまり今日だけは暇だ。よし、行こう。身支度をするから、どこかで待ち合わせよう。いや、待ち合わせ場所もわからないか。ついてこい」
こうして導いてくれるのはありがたい。兄という存在がいれば、きっとこんな感じだっただろう。意味もなく、そんなことを考えている自分がいる。
俺はエイグリアについて彼に与えられている部屋の前まで行き、少し待ったかと思うと、彼が平服からまったくの私服に着替えて出てきたのに目を白黒させることになった。エイグリアは平然と先に立って歩き出し、俺は背中を追うしかない。
砦の中は入り組んでいるようで、エイグリアは次々と通路を折れていき、あっという間に正門らしい門にたどり着き、あっさりとそれをくぐった。門に至る通路の所々に仕掛けがあり、万が一の時は簡単に封鎖できる仕組みも見え、そこはさすがに砦ということだ。
ともかくこれで、外へ出ることはできた。
砦を出てみると、そこもやっぱり俺が知らない光景だった。
人々が行き交い、いくつもの商店が通りに面して並ぶ。一人だったらどちらへ行ったらいいか、わからなかっただろう。
どこへ行くのかと思うと、大通りから脇道に入り、すぐそこにある商店に入っていく。
「どうも、こんにちは」
エイグリアが自然な口調で言うと、店主らしい女性が駆け寄ってきた。俺はといえば、周囲の棚に並ぶ服を眺めていたのが、女性の甲高い声で反射的にそちらを向かざるをえなかった。
「あら、エイグリアさん! 防衛軍が出動したと聞いてますよ! ご無事でしたか?」
「この通りです。今日は友人に服を選んで欲しくて」
「ご友人って、こちらの方?」
女性の目に剣呑な光がよぎるが、エイグリアがすぐに助け舟を出してくれる。
「この格好は借りた服を着ているだけですよ。十字架も借り物です。俺が基地都市へ連れてきたんですから。元は浮民です」
「浮民? まぁ……」
女性はまた不審そうな視線になったが、エイグリアは動じない。
「僧侶よりはマシでしょう。銭は俺が払いますよ、今、ここで」
「銭のことはいいんですよ、エイグリアさんはお得意様だから」
「では、三着くらい、見繕ってやってください」
結局、女性は根負けしたようで、俺の体を採寸して、棚にあった服をいくつか用意してくれた。俺はそれを試着して、エイグリアが「三着だぞ」と念を押してくるので、三着を選んだ。
本当に彼が銭を払うとは思っていなかったけど、言葉の通り、本当に払ってくれた。
その場で僧服から着替えて、買った服と僧服の入った包みを抱えて店を出てから、俺が自分で銭を払う、と持ち掛けてみたが、エイグリアは受け取らなかった。
「代わりに昼飯を奢ってくれ。ここには浮民の知らない料理がいっぱいあるぞ」
もうエイグリアはどこかウキウキとした足取りで歩き出している。
俺は慌てて駆け足でそれについていった。
こんな日が自分の人生で実際にあるとは、想像もしたことがなかった。
でもこれは、現実だった。
不自然に思えるほどの、現実。
(続く)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます