第27話
◆
足が、進まない。
亡霊はゆらゆらと揺らめき、俺を見ている。
自分の足が、自分の足とは思えないほどに重い。最初の一歩だけが、限界だった。
(消してくれ、アルタ)
亡霊の声に宿る、拭いがたい哀願の色。
そんな声で語りかけないでくれ。
(お前だけが、こうなってしまった私を消せるのだ)
進み出た。
亡霊に触れ、神権を発動するだけで済むのだ。そして亡霊はほんの数歩先に漂っている。無防備に、平然と。
なのに俺は、動けなくなっていた。
「言うんじゃなかった」
自然、声が口をついて出た。
「あんたを父親だなんて、言うんじゃなかった……」
亡霊は亡霊に過ぎない。生きているわけではないし、俺以外の誰かに見えるわけでもない。ものを動かせるわけでもない。ただそこにある、影のようなものだ。光が生み出す影のようにしか見えず、光が当たれば消えてしまう。
しかし、それでも。
この四年の間、俺を教え、導いたのは、その亡霊だった。
ウルダと過ごした長い時間にも、何ものにも代えがたいものがあった。愛情があり、信頼があり、反発があり、融和があった。
亡霊との間にも、それがあるのだ。
実体があるとかないとか、そんなことは関係なく、亡霊は俺の師であり、父だった。
「なんで俺しかあんたを消せないんだ……。そんなのは、惨すぎる」
(何もかもが、血筋なのだ、アルタ)
今度の亡霊の声はいっそ、柔らかかった。切なく、儚い波となって、俺の思考に流れてくる。
(私の復讐の結末を、全てお前に背負わせることを、申し訳なく思っている。できることなら、私は自ら消え去りたいが、重すぎる怨嗟は、私をもはや人ではなくしてしまった。頼む、アルタ、お前が唯一の光なのだ)
「父親を殺せる子が、いるものか」
(父ではない。お前を、お前の父を狂わせた、ある種の魔物なのだよ、私は)
理屈だ。屁理屈だ。
(やれ。やるんだ、アルタ。頼む)
亡霊が進み出てくる。
亡霊は罰を受けるべきかもしれない。しかし俺が罰を与えることは、できない。
すぐ目の前に亡霊が立った。間近で見れば、その表情は安らかだった。
(終わりの時が来たのだ)
亡霊の手が俺の手を掴む。
言葉はもう、意味を持たなかった。
俺の手の中に、ありもしないはずの感触があった。
柔らかく、しかし剣を長い間、剣を握り続けた、よく使い込まれた手が、俺の手をしっかりと握っている。
俺は目を閉じ、ないはずの手を握り返し、力を込めた。
まぶたの向こうで、光が瞬き始めるのがわかったが、俺を目を強く閉じていた。
手が、熱い。
稲妻を掴んだかのように、灼熱が暴れている。
亡霊の最後は、とても見られなかった。
ただ、ただただ、俺は自身の神権を意識し、流し込んでいく。
亡霊は悲鳴一つ上げなかった。
光は収まっていき、手の中の熱も、不思議な感触も、何もかもが消えた。
俺は真っ直ぐに立ったまま、恐る恐る、瞼を上げた。
目の前には、何もない。普段通りの、北部戦域の外れの、よくある光景。
亡霊がそこにいた痕跡は、少しもなかった。亡者の肉体が残したような砂の山もない。当たり前か。実体のないものが、本当に実体をなくしたのだ。何かが残る理油がない。
ため息が漏れた。
亡霊は、消えてしまった。
俺は二度、父を亡くしたということになる。
そのことに落胆している暇はなかった。
不意に背後で鋭い悲鳴が起こり、振り返るが、見えるのはやはりいつもの光景、小さな畑と、ボロボロの住まい。声はその建物の中からだった。
声は、レイスのそれだ。
足早にそちらへ向かおうとすると、戸が開き、転げるようにレイスが飛び出してきた。
「レイ、ス……?」
そこにいる女は、レイスのようで、レイスではなかった。
浅黒かった肌は白くなり、白かったはずの長い髪は黒に変わっていた。
顔の造作や体つきはレイスそのものなのに、別人だった。
その表情もまた、見た事もないほど怯えていた。
彼女は俺を見る。白い肌からさらに血の気が引き、真っ青な顔で絶叫した。そして周囲を見ると、どこかへと駆け出していった。止める間もなく、彼女は駈け去っていく。
何が起こったかは、自明だった。
亡霊が消滅し、ついにレイスを縛っていた亡霊の意図が消滅したのだ。レイスをレイスたらしめていた超常的な力がなくなり、レイスは本来の人格を取り戻した、ということだと想像できた。
どこへ駆けて行ったのか、俺には想像もつかないが、もはや引き止めることは不可能だった。もしかしたら戻ってくるかもしれないが、それは俺の願望で、先ほどの怯えようでは戻ってくるとも思えなかった。
レイスは、あるいは俺の元へ来る前の記憶を取り戻したのかもしれない。そして、俺と暮らした時間の記憶は、失ったか。俺を見たときの彼女の顔は、見知らぬ人間に恐怖する顔だった。
俺はもう一度、レイスが消えた方を見たが、もう彼女の姿は少しも見えない。
無事であることを願うしかない。
それ以外にしてやれることは、一つもなかった。
一人きりになったことを否が応でも意識しながら、俺は家の中に入ってみた。炉では火が燃えていてその上で鍋が煮えていた。覗きこむと、今朝のものとは味付けが違う粥が出来上がっていた。レイスは俺が何をしているのか知らずに、昼食の支度をしていたのだ。
虚しいものを感じながら、俺は鍋を炉から降ろし、改めて室内を見た。
ここにいても、もう仕方がない。
亡霊もおらず、レイスもいない。ウルダだっていない。ひとりきりだ。
一人なら、どこへでも行くことができる。北部戦域の外れは、それぞれの生活するものの縄張りがあっても、土地を所有しているものなどいない。誰かが所有できる土地ではないのだ。
何も、俺を縛るものはない。
腹ごしらえをしてから考えるとしよう。
もっとも、粥はあっという間に食べてしまい、結局、自分の家を検める作業に取り掛かるのだった。
戸棚は小さいものが一つあるだけで、俺やレイスの着物が入っている以外は、ちょっとした雑貨と、簡単な医薬品しかない。確認していくと、俺の着物が綺麗に洗われ、丁寧に畳まれているのに出くわして目元が熱くなったが、なんとかやり過ごした。
そんなことをしていると、不意に引き出しの一つに、いい仕立ての着物があり、さらに小さな袋と封筒が添えられているのを発見した。
なんだ?
袋を手に持ってみると、大きさの割に重い。
口を開いて中を覗き込むと、銭が収められていた。かなりの枚数だ。
封筒を開くと、丁寧な字が書かれた質の悪い紙が出てきた。この紙は昔、中年女の方のレイスに読み書きを習ったときに何度も見た。この家のどこかに残っていたのだろう。
肝心の文面は、レイスからの手紙だった。
ウルダが残した着物を整えてあること、銭は少しずつ貯めたもので好きなように使っていい、ということが書いてあった。
そして最後に、これを俺が読んでいるということは、おそらく自分はもういないだろう、とあった。
今までありがとう、という言葉で結ばれていた。
そうか、レイスは別れを予感していたのか。そうでなければ、別れが来ることを必然と捉えていたか。
ウルダがレイスと名乗る女を切ったこと、それも何人も切ったことを、俺のそばにいたレイスは知っていただろうか。それなら、彼女は俺に殺されることも覚悟していたのか。
何もかもが、すでに問いかける相手のいない問いだった。
一人になるとは、そういうことだ。
誰も何も教えてくれない。助言もしてくれない。
俺はどこへ行けとも、何をしろとも、もう誰にも言ってもらえない。
自分で決めるしかない。
着物の状態を確認し、銭の総額を数え、何度かレイスの手紙を読み、それで俺は決めた。
苦労して夕食を作り、一人で床につく。
翌朝早く、目を覚ましたら家にあるもので適当に料理をして、朝食にした。
これが、ここでの最後の食事になる。
食事を終えて、俺はウルダが来ていたという着物を身に付け、亡者から手に入れた剣を厳重に布で包んで手に下げた。他には小さな荷物があるきりだ。銭は元の袋のまま、懐に入れた。
建物を出る。早く起きたこともあり、外の空気は北部戦域のいつもの空気でありながら、瑞々しく思えた。
レイスが戻ってくることはないだろうと、遠くを眺めながら考えた。いや、自分に言い聞かせた。
何もかもが、終わりを迎えたのだ。
俺は家の戸を閉め、その家を改めて眺めた。
古い。古すぎる。よくここで暮らせたものだ。
立ち去るとなると、名残惜しいものがあった。
しかし行かなくてはいけない。
ここには何もないのだから。
俺は家に背を向け、歩き出した。向かう先は決まっている。北部戦域を担当する防衛軍の拠点、基地都市だ。そこへ行けば、何かの仕事もあるだろう。俺に何の仕事があるかはわからないが、剣を振るうことはできる。いや、剣を振るうことしかできない、が正確か。
とにかくもう俺は、居場所がない、流れる雲のようなものだ。
強い風が吹けば吹き散らされてしまいそうな、雲。
先行きなど、何もわからなかった。
進むしかなかった。
好奇心というよりも、これは義務だった。
ルードから始まり、ウェズ、ウルダ、そして俺へと引き継がれていた長い復讐と怨念の連鎖が終わった後を生きるものの、義務。
風が強く吹き付けても、俺は先へ進んだ。
何もかもを、振り払うような歩き方で。
(続く)
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