第26話

      ◆



 布団に寝かされたところまでは記憶にあったが、他はぼんやりしている。

 魔物に押しつぶされると思った次には、それが夢だと気づくが、俺は汗にまみれている。全身は硬直し、しなやかさを失って軋んでいた。起き上がれずに呻くしかない。

 そんな俺のそばには、必ずレイスがいた。

 水差しも使えないので、レイスは小さな布に水分を含ませ、それを唇に当ててくれる。冷たい布で汗を拭われるのも気持ち良かった。その布の温度で、自分が発熱しているのがわかってきた。

 固い布団にどこまでも沈み込みそうな錯覚の中で、俺は繰り返し悪夢に落ちた。

 見たこともない場所、しかし見覚えのある場所。

 どこまでも続く大地は黒く染まり、人が住む場所ではない。

 魔物の叫び声、地面が揺れるほどの足音の響き。

 俺は剣を持っていて、魔物に向かっていく。魔物を切り裂き、突き倒し、抉り、破壊していく。

 魔物ががむしゃらに振り回す棍棒や、殆ど刃が潰れている剣が、俺に向けられる。

 俺は何故か、防ごうとも避けようともしない。

 棍棒が体を打ち、皮膚が裂け、肉が潰れ、骨が折れる。剣が強引に体に食い込み、ズタズタにする。

 絶叫する俺は、しかし息の一つも漏らさない。

 体が勝手に蠢めく。痛みが遠くのことに感じられ、すでに傷は治癒している。

 そしてまた、俺の剣は構わずに魔物を倒していく。

 魔物の絶叫。飛んだ首を目で追うと、その首は、人間のものではない。

 ウルダの首。

 俺は声を上げて目を覚ました。反射的に上体を起こしかけ、背中に走る痛みに、息を詰まらせる。そっと布団へ戻ると、レイスが炉の前からすっ飛んでくる。

「大丈夫?」

 本心から心配しているのがわかる。その顔を見れば、生きて帰ってきてよかったと思える。

 悪夢が急速に薄れていくのを感じながら、俺は頷き、手をついてゆっくりと体を起こした。

 すぐにレイスが器を差し出してくる。白湯の入った器だ。かすかな湯気が連想させるぬくもりがありがたい。そっと口をつけ、一口で全身がほぐれるようだった。思わず息が漏れる。

 まだ不安顔のレイスに、笑いかけることもできた。

「なんともないよ。そろそろ、身体も元に戻るだろう」

「丸二日も眠り続けたのに、よく言うわ」

 ツンと顔を背け、レイスが炉の方へ戻っていく。うまそうな匂いがしていた。雑炊か何かだろう。さすがにまだ、胃腸が重いものは受け付けそうになかった。

 レイスを眺めるのをやめて、部屋の片隅に置かれた剣を眺めてみる。

 俺が亡者から奪ってきた形の剣だが、俺が気を失ってから、レイスはそれを動かすのにすら苦労したようだ。手が焼けた、といって傷跡を見せさえした。確かに手のひらは爛れていて、高温のものに触れた火傷に似ていた。

 と言っても、今は部屋の隅に転がされていて、周囲に何らかの影響があるようではない。例えば床が焼けているとか、床が腐っている、というようには見て取れない。

 いったい、あの剣には何が宿っているのだろう。ただの剣ではなく、魔剣、とでも呼ぶべき剣だ。

 どこかに放り出してくるべきだったかもしれない。得物がないがために、ここまで持ってきたが、失敗だったかもしれない。そこらに放っておけば、誰かが回収して転売しただろう。もしくは、剣に宿る力で負傷するかもしれないが。

 レイスが想像通り、雑炊の盛られた器を持ってきた。米の他には、くすんだ色の何かの野菜が入っている。レイス自身が畑で作ったものだ。たいして収穫できないが、こういう時にはありがたい。

 礼を言って受け取り、食べ始める。ここのところ、白湯や重湯くらいしか食べてなかったので、雑炊の食べ応えが食事をしているという意識を与えてくれる。するすると腹に収めていくうちに、血の巡りが良くなり、力が体に行き渡っていく気もした。

 食べ終わって、形だけの茶を啜ってから、俺は試しに立てるかどうか、まずはしゃがむような姿勢になり、慎重に足に力を入れてみた。ぐらりと姿勢が乱れかけたが、立つことができた。

 細く息を吐いて、体の重心の位置を変えて、具合を確認していく。五日ほど横になっていたことになるが、回復は順調らしい。さりげなく俺の様子を見ていたレイスが洗い物へ戻る。

「ちょっと外に行ってくる」

 俺はそうレイスに声をかけ、一歩一歩、ゆっくりと足を出していって家を出た。

 久しぶりの外の空気は、空が薄暗く、地面が暗色だとしても、新鮮に思えた。

「おい、そこにいるのか」

 誰もいない虚空へ、声をかける。

 返事はない。

 視線を巡らせ、何かの痕跡を探そうとする。どんなに些細なものでも見逃さないつもりで、周囲を睨んでいく。

「ルード、そこにいるんだろう。聞こえていないのか」

 ルードが、亡霊が消滅したとは思えなかった。

 レイスが今まで通りということが、不自然に感じられたのだ。

 仮にレイスの存在する理由が、亡者を倒すこととは関係なく、どこかにいる亡霊の本来の復讐の達成がなされない限り消えないとすれば、今のままでも受け入れらる。

 だが、復讐がなされていない時には亡霊もまた残っているのではないか。レイスを支配した力の源が消えた時、レイスが解放されると考えれば、レイスがレイスのままでいる以上、亡霊は存在するはずだ。

 宿るべき肉体を失ったとしても。

「答えろ、ルード。どこにいるんだ」

 小さな音がして、俺は振り返った。

 誰もいない。無人の光景。家の方から微かな物音がするが、それとは違う音だった。

「ルード、いるんだろう」

(私に何の用がある)

 不意に頭の中で声がした。

 生きていた、消えていなかったのだ。

 安堵したようであり、同時に俺の心は緊張した。

 亡者が滅びても、この世界に残り続ける亡霊は、まさしく亡霊そのものなのだから。

「ルード、あんたの肉体は、俺が滅ぼしたよ」

(遠くから見ていたから、知っている)

「あんたも一緒に消えたかと思った」

(どうやら私の怨念は、肉体など不要としたようだな。我ながら、人間の感情の力とは恐ろしい)

 まるで他人事のような口調だが、亡霊もまた、何か変わってきたようだ。

「俺はこれで、ウルドの仇を討ったことになる。もう戦う理由は消えた、ってことだ。ついでに言っておくと、あんたの復讐を代行する気にはなれない」

(ではこれから、お前はどうやって生きていくつもりだ)

「そうだな……」

 俺はレイスがいる家の方を見てから、亡霊の気配のする方に向き直った。

「どこか、もっとまともなところへ行くよ。人間らしい生活ができる場所へ」

(お前の剣術なら、どこかが欲しがるだろうな。しかし、レイスはどうするつもりだ)

「レイスは」

 俺の声は、熱がこもっているようで、冷え切っているようで、矛盾する感情、相反する音色がこもった複雑なものとなった。

「レイスは、あんたを消すことで、解放する」

 考えていたことだ。ここのところずっと、考えていた。

 亡霊はすぐに答えなかった。

(お前の破魔の力なら、なるほど、私を消すことはできるだろう)

「消えたくない、と思っているか?」

(もはや肉体もないのだ。おそらくこのままでは、死ぬことも消えることもなく、私はこの世界をさまようことになるだろう。それが私に与えられた本当の罰ということかもしれない、と思っていた)

 罰、ね。

 それはつまり、復讐が間違っていた、ということだろうか。

 それとも、ウルダのことを言っているのか。

「カーバイン侯爵という奴を、探してみるよ」

 そう提案する俺に、亡霊は低く、かすかに笑ったようだった。

(もうあの男は死んでいる。生きているのは、その子か、孫だろう。そのものは私の怨みとも憎しみとも関係ない。私の復讐は、すでに対象を失い、空転していたのだな)

「俺は剣術を教えてもらったことを、忘れないよ」

 慰めるようなことを言う自分に、嫌悪感があった。

 どんな言葉をかけたところで、この亡霊の悲しみを溶かすことはできない。意味もない軽口しか返せない自分は、情けなかった。

「一応、俺の祖先だしな」

(お前の父親を狂わせたのも私なら、殺したのも私だ。私を恨めば良い、アルタ)

「気にしていないよ。オッサンが俺の親だなんて、未だによく飲み込めないしな。何せ、そっけないし、言葉を口にしない、変な人だった。それに、父親らしいことをして欲しかった、とも思っていない。それは、あんたが代わりにやってくれた、ルード」

(私が、お前の父親だと。馬鹿なことを。私はただ、道具が欲しかっただけだ。よく切れる剣が欲しかったようなものだ)

「それでも、あんたは俺の父親さ」

 勝手にせよ、と亡霊は低く応じた。

(私を消せ、アルタ)

 ぼんやりと虚空から亡霊が滲み出してきた。

 壮年の男の姿をしている、一〇〇年近く前の存在。

 肉体を喪失した、精神だけの存在。

 俺は、一歩、亡霊に近づいた。

 亡霊は、逃げなかった。



(続く)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る