第23話

        ◆



 朝食の席で、俺はレイスに伝えた。

「少し、戦場へ行ってくる」

 短い言葉のどこに何を察したのか、レイスは少し眉間にしわを寄せた。

 彼女が言葉を発する前に、こちらから言葉を向ける。

「しばらく帰らないと思うけど、心配しないでいい」

「そんな気休めが通用すると思う?」

 いつになく棘のあるレイスの口調だった。俺は苦労して、驚きの表情を作った。

「気休めって、たまに行っているじゃないか。戦場に残っている武具を回収しに行くだけさ」

「嘘をおっしゃい」

「嘘じゃない。本当に戦場へ行くんだ」

 不意に、レイスの目に悲痛なものが宿ったのを、俺は見過ごせなかった。

「そんな顔をしないでくれ。その……、落ち着かない」

「そんな顔って、どんな顔よ。まさかあなたを私が笑顔で送り出せるとでも?」

 今度こそ、俺は言葉を返せなかった。

 レイスと暮らし始めて四年が過ぎている。色々なことがあったが、いつの間にか、自然とお互いのことをよく理解するようになっている。大抵のことは阿吽の呼吸でできるのだ。

 レイスが俺の心を推測するように、俺にもレイスの心が推測できた。

 彼女は俺が亡者に敗れて戦場で倒れ、救出されたことを忘れていない。あの時から、俺を見るレイスに目は変わった。その瞳にあるのは、俺を失いたくない、という思いに見えた。

 亡霊が用意したレイスという存在が、俺にそこまで固執する理由は、俺にはわからない。俺に固執するように仕向けられているとしても、レイスが見せる感情は、生々しすぎた。

 俺にとってレイスは生活を共にする、ある種の家族だった。

 レイスにとっての俺は、家族なのだろうか。

 俺とレイスが家族だとしてもそれは不自然な土台の上にあることになる。俺はともかく、レイスは他人の意志でここへ来て、ここで暮らしたのだ。

 暮らす中でレイスの中に生じた思いが、本来の人間に宿る感情と同じものだと、誰に断言できるだろう。

 断言できるわけがない。

 それなのに、俺はレイスに、まったく自然な人間らしさを見出している。

 俺が戦場に出ることを、レイスは心の底から怯えている。

 俺が戻ってこないことに、恐怖している。

 その不安がすでに、レイスの目に、表情に、雰囲気にはっきりと見て取れた。

 どうすることもできない。俺は戦場に向かい、亡者を切ると決めた。安全じゃないどころか、おそらく勝敗は紙一重で決まるだろう。五分五分、と言いたいところだが、向こうは不死で、ついでに優れた武器を持っている。一方の俺は命をは一つしかなく、剣も平凡だ。四分六分、というのも危険な認識だろう。

「心配するな」

 言葉を口にするのが、これでほど苦しく感じることはなかった。 

 だが、どれだけ苦しくても、言葉にしなくてはならない。

「心配しないでいい、レイス。ちゃんと戻ってくるよ。約束する」

 俺は、紛れもない嘘を口にしている。

 その嘘は、レイスをもしかしたら、深く傷つけることになるかもしれない。俺が死ねばレイスも意味を失う、とは思えなかった。俺が死んだ後も、レイスはきっと生き続けるだろう。もしくは、俺を待ち続けるのか。

 馬鹿げている。亡霊の言葉を信じるのなら、レイスは俺のために用意され、俺がいなくなれば用などなくなる。

 それなのに俺は、レイスに生きていて欲しいと思っている。思い込もうとしている。だから、彼女の未来を勝手に思い描いている。

 俺の不在に悲しみ、嘆き、絶望するとしても、生きていて欲しいのだ。

 俺がいたということ、俺の存在を証明できるのは、レイスしかいないから。

 その彼女は俺の言葉に、真っ青な顔になり、目を細めている。目じりに少しずつ水滴が盛り上がり、頬を伝うのを、ただ見ているしか俺にはできなかった。

 二人の間に言葉はない。

 視線だけがぶつかり合い、絡まり、お互いの内面を覗こうとする。同時にお互いが、自分の感情を抑え込もうとしていた。

 レイスは俺を引き止めることを、諦めようとしている。

 俺は、レイスと共にいることを望む心を、切り捨てようとしている。

 これより未来に、俺とレイスが共に過ごす時間がないとしても、一方で今が永遠に続くこともないのだ。

 俺にはやらなくちゃいけないことがあった。

 他人から押し付けられた復讐ではなく、実父の敵討ちでさえもなくなった、一つの闘争。

 亡霊をこの世界から消滅させる、誰も知らない、個人的な戦い。

 誰のための戦いだろう。

 自分のためか。血筋のためか。

 わからない。わからないけど、わからなくても、戦うしかない。

 剣を手にすれば、思考は相手を切ること以外のことを忘れるだろう。忘れられなければ、切られるのはこちらだ。

 俺は迷いを断ち切るために、レイスに話した。

 レイスに話さずに住まいを離れることもできた。ちょっと出かけるとかなんとか言って、ひっそりと出て行くこともできたかもしれない。

 その選択肢を、俺は避けた。

 レイスが何を思い、どんな言葉を口にするとしても、彼女に黙ってはいられなかった。

 俺の勝手な自己満足だとしても。

「レイス、戻ってくるよ」

 もう一度、そう言葉にした時は、喉にひきつるような感覚があった。

 俺は酷い人間だ。嘘を平然と口にしている。

 深く俯いたレイスは、静かに涙を拭うと「わかった」と言葉にした。低い声で、語尾が震えた。

「絶対に、戻ってくる」

 返事がないので、俺は「行くよ」と席を立った。

 身支度をして、剣を腰に下げて建物を出ようとするとレイスの姿はなく、しかし卓の上に包みがあった。そばに紙片が置かれ、そこにはただ「食事」とだけ書かれている。レイスが用意してくれたのだろう。

 表へ出てみると、レイスは普段通り、畑に出ていた。

 足を止めて彼女を見ると、彼女も動きを止めてこちらを見た。

 両者が動きを止め、しばしの間、視線を向けあった。

 俺は包みを持った手を上げて、挨拶に代えた。レイスはただ、小さく頷いた。

 それだけが二人の別れの挨拶だった。

 俺は一人で住み慣れたぼろ家に背中を向け、進み始めた。荒野はどこまでも続いている。しばらく進めば、丘陵の陰になってレイスの姿も、畑も、ぼろ家さえも見えなくなる。

 足を止める理由はなかった。

 戦うと決めれば、もう分岐点はありはしない。

 一本道を進むしかなかった。

 半日以上を進むうちに、魔物を何度も迎え撃つ形になった。剣技は機能し、神権も機能した。

 どれだけの魔物が来ても対応できるような気がした。

 進めば進むほど、空気が粘り気を帯びるような錯覚がある。空はより低くなり、雲は重みを増したようだ。

 夜が来て、体を休め、翌朝には更に先へ進む。

 地面に散らばり、ところどころの土に埋まっている白骨の数は多くなり、踏まずに歩くのも難しい。どこからともなく漂う腐肉の臭いに包み込まれる感覚は、何度味わっても慣れるものではない。

(不思議なものよ)

 亡霊の言葉が、まるで戦場に消えた命の残した声のように、俺の頭の中に届く。

(あの娘などに必死になるなど)

 かもな、と俺は答えた。独り言を言っているわけだが、まるで死者に語りかけているようだった。

「しかしレイスには、レイスの心があるはずだ。それを放ってはおけない」

(口先だけの言葉を残して、どうなるというのだ)

 俺には応えるべき言葉が思いつかない。

 亡霊の指摘は正しい。確かにどうなるものでもない。

 どうなるものではないと知っていて、口にしたのだ。

 俺は口を閉じて、ただ歩を進めた。亡霊ももう、声をかけてこなかった。

 前方から魔物の群れが迫ってくるのが見て取れた。

 俺は腰の剣の柄に手を置いた。

 死ぬわけにはいかない。

 帰ると、俺はレイスに約束したのだ。



(続く)

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