第16話
◆
傷の影響は思ったよりも長引いた。
一ヶ月は上体を起こすのにも苦労し、立てたのは二ヶ月後だった。床擦れも酷かったか、何よりも筋力が落ちた。立ち上がった時も、レイスに助けてもらい、それからしばらくは杖を両手についていた。
それでも動けるようにはなったのだ。
さらに一ヶ月をかけて日常に復帰し、その上でさらに一ヶ月で、感覚を取り戻した。
つまり半年もかけて、元どおりにさえなっていない。
亡霊はこの半年の間、姿を見せなかった。どこかへ行っているのか、それとも俺の頭の中で囁いたように、俺を救うのに疲弊し、どこかで休んでいるのかもしれない。まさか亡霊がどこかに身を横たえるわけでもないだろうが。
俺はその日、久しぶりに剣を手に取り、家を出た。
表の開けた場所に立って、剣を抜いていく。
重い。剣がこんなに重いと感じたことはない。
まともに振れるとも思わなかったが、それでも振りかぶってみる。腕が震え、切っ先は定まらず、剣がグラグラと揺れていた。
振り下ろすのは諦め、慎重に剣を下げて、一息ついた。
これは負傷する前に戻るには、さらに数ヶ月、半年は必要かもしれない。
それでも、その間にあの人ではない何者かが、誰かに倒されるとも思えなかった。容易に討伐できる存在ではない。なら俺が倒す可能性は残されている。今の体では絶対に不可能とはいえ。
気づくと、畑仕事の最中だったレイスが動きを止めてこちらを見ている。手を振ってやると、彼女は作業へ戻った。亡霊が用意したとはいえ、レイスがいて助かった。こんな展開は想定していなかっただろうが、北部戦域の外れで、半年も動けないものなど生きていけない。世話をするものも、悪くすれば道連れになる。
手の中の剣の柄の感触を確かめていると、すぐそばに気配を感じた。視線を向けるが、何もない。
「そこにいるのか」
声をかけてみる。
返事があった。
(剣を振るには、まだ早かろう)
亡霊の声だ。しかし姿は見せない。見せられないのかもしれない。
「迷惑をかけたらしい。礼を言っておくよ」
(お前には役目がある。それを忘れるな)
そうだな、と言葉にしてから、俺はこの半年、ずっと考えていたことを投げかけてみた。それは亡霊が今、姿を見せないこととも関係しているように思えたからだ。
「俺と戦った、あの男は、あんたに似ていたよ。髪の毛は伸び放題だったし、髭も伸びていた。汚れきっていた。だけどあんたにそっくりだった」
返事には少しの間があった。
(だから、なんだ)
「だから」
自分でもおかしなことを言っている自覚はある。しかし、筋が通らないわけではない。
「だから、あれはあんたじゃないのか? あんたの体、というべきかな。しかし不思議なのは、あの体が動く以上、意志があることになる。精神が分裂でもしたのか?」
荒唐無稽な発想だったが、亡霊は微かに笑ったようだった。
(何故、そう思う?)
「神権というものを加味すれば、起こりえないことじゃない。ただ、どういう神権かは思いつかないな。ひとつ、はっきりしていることは、俺が殺されるはずのところを、あんたは何故か、止めることができた。その理由は、あるいは単純なのかもしれない」
俺は視線のやり場もなく、ただ遠くを見て、一人で喋っていた。
「理由は、あんた自身だからだ。自分で自分を止めた。簡単なことさ」
(では、私がお前を殺そうとしたことになるな)
「そう、その点は激しく矛盾する。矛盾しない理屈は、亡霊であるあんたと、亡者とでも呼ぶべきあんたの肉体は、やっぱり別々に動いていて、別の意志で動いているんじゃないかな。どう思う? あんた自身のことなんだろうから、答えは知っているんだろう」
さてな、と亡霊は誤魔化そうとしたようだが、しかし真剣な調子で言った。
(察しがいい奴は好きだが、察しが良すぎるのは不愉快だな)
「答えを教えてくれよ」
(お前が言った通りだ)
亡霊は姿を見せず、ただ語りかけてきた。
(あれは私だ。名を、ルード・ハルハロンという。乙種流刑に処された男だよ)
「乙種流刑だって?」
思わず声がひっくり返ってしまった。またレイスがこちらを見たので、首を振っておく。彼女は不審そうな視線を向けたが、また作業へ戻る。こちらはこちらで会話を続けるが、自然と声をひそめる。
「乙種流刑っていうのは、不死者となって永遠と戦場をさまようという、あの乙種流刑のことか?」
(そうだ。最高位の神権の使い手、御使によって不死者とされ、戦場に送られる刑罰が、乙種流刑だ。死ぬまで、いや、死んでも戦い続ける刑罰だよ。死に続けると言ってもいい)
俺も知識としては知っている。ウルドと暮らしていた方のレイスから、読み書きなどと一緒に教えられたのだ。
御使とはマーズ帝国で広く信奉されている神権教会の象徴で、特別に優れ、神にも等しい神権の使い手と聞いている。なんでも、神権教会が崇める唯一神の子であり、唯一神の一部であるのが、御使という存在だった。
それだけの神権の使い手なら、人間の寿命さえ、自由自在に支配できるということか。
ただ、乙種流刑に処されるほどの罪人はそう多くはない。
「いったい、あんたは何をしたんだ?」
疑問がそのまま言葉になってしまった。他人の事情に土足で踏み込むようなものだが、好奇心を抑えられなかった。
亡霊の声は、しかし淡々としている。
(ただ恋をしただけだ)
「恋をしただけ?」
鸚鵡返しに言葉にしたものの、その真意はわからない。想像力の問題だろうか。
亡霊の言葉は、俺の疑問を解消しようとでもいうのか、先へ進んだ。
(私は帝国騎士団の教導隊の隊長だった。はるか昔の話だがな)
「騎士団の、教導隊? もしかしてあんたは名家の出か何かかい?」
(いいや、平民の家庭に生まれ、剣の腕と、ささやかな政略でその地位に登ったのだ。だからこそ、悲劇は起きたのだが)
「恋愛って、つまり平民の出のあんたが、貴族のお嬢様とお近づきになって、破滅した?」
(そういう察しの良さは、不愉快なものだな。事実なのだから、何も言えん)
おいおい、と思わず声が漏れていた。子供向けの物語じゃないぞ。
陰謀で教導隊の隊長を乙種流刑の身に落とすのは、容易なことではないだろう。それなりの立場のものが動いたはずだ。
「まさか、あんたを破滅させた相手を切るのが、俺の役目か」
(そうなるな)
ありえない、と思わず声が漏れていた。
「貴族を切れ、だと? そんなことをすれば、今度は俺が乙種流刑か、あるいは死罪だ。つまり自殺行為というより、正真正銘の自殺だよ。俺には無理だ」
(かもしれないな。詳しく話してやろう)
詳しくなんて聞きたくない、と反論しようとした。
しようとしたが、その言葉が出る前に、亡霊は決定的な一言を口にした。
(私の復讐は、お前にも関係することだ)
俺に関係する? 何故?
亡霊は昔話を語り始めた。
(続く)
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