第14話

       ◆



 ぼろ家にレイスを一人残し、亡霊に従って俺は荒野へ踏み込んだ。

 数日という亡霊の言葉に嘘はなかった。丸二日、歩き続けたが、まだ目的地ではないらしい。周囲にはこれといって目印になるようなものはないが、人の背丈ほどの岩がいくつか転がっている一帯だった。もっとも、どの岩も似通った形状で、位置関係を即座に把握するのは難しい。

 はるか遠く前方には、国境長城の影が見え隠れしている。つまりそちらが北で、俺は亡霊に従って北へ、マーズ帝国の領域から魔物の領域へ向かっているのは間違いない。

 歩く間、俺は無言だったし、亡霊も一言も口をきかなかった。沈黙はカラスの鳴き声と、強い風が渦巻く音が存在しているがために、沈黙としてあるようなものだ。

 それと、どこからか魔物の唸り声のようなものも聞こえていた。つまり北部戦域はいつも通りということ。

 移動の間、魔物の群れと何度か遭遇した。一度などは、魔物の目と鼻の先を通ったが、奴らは地面から何かを掘り出し、それを無造作に口へ運ぶのに集中していて、俺に気づかなかった。

 食事に必死の魔物の群れが南へと去っていくのを見送ってから、何を地面から掘り出していたのかを確認してみると、辺りには千切れた腐肉が転がっているとわかった。半ば土と同化した何かの死骸を漁っていたのだ。

 嫌悪感がこみ上げ、反吐が出そうだったが、渾身の自制心でこらえた。

 亡霊は何を思っていたのか、やはりこの時も無言なのだった。

 その沈黙には普段の沈黙とは違うものを感じたが、問いかけるきっかけもなく、ひたすら先へ進んできた。夜は持参した薄手の羽織にくるまって眠った。ウルダが残したもので、彼が戦場へ出かけて何日も帰らないような時、携えて行っていたものである。一番新しいものはウルダが行方不明になった時に失われたけれど、古いものは残っていた。

 水と食料はレイスが持たせてくれたものがあったけど、さほど多くはなく、少しずつ飲み、食べるしかない。食料になりそうなものなど、どこにもないのだ。草が生えているわけでもなければ、澄んだ小川が流れているわけでもない。

 このことに関しても亡霊が無言を貫いたということは、逆から見れば、食料も水も足りなくなるところに目当ての何かがいる可能性は少ない、ということか。

 少しも迷いもせずに亡霊が進むが、何故、彼には俺が探しているウルダを殺した相手の居場所がわかるのかは、想像もつかない。亡霊としての超常の力が働いている、という空想から一歩も抜け出せないが、この空想は空想だとしても良すぎるほど都合良くできている。

 亡霊が剣術を教えてくれた、ということでさえも、誰も信じようとしないと思える。その亡霊が案内してくれた、ということも誰も理解しないという点で、似たようなものだ。

 いずれにせよ、誰も信じようとしなくても、俺が事実だと知っていれば、困りはしない。

 ともかくそろそろ、辿り着くだろうという予感がし始めたのは、亡霊の気配がはっきりと緊張し始めたからだ。

 すでに防衛軍と魔物の戦場からも離れている。国境長城までははるかに距離はあっても、実際には魔物の跋扈する領域だ。

 そろそろかい、と声をかけようとした時、不意に亡霊が足を止めた。俺はその横に並ぶ。

(あれだ)

 亡霊が指をさす。

 俺がそれを追う。

 荒野の真ん中、岩が一つ転がっているのが見えた。

 普段通りの分厚い雲が日光の大半を遮り、空気は湿り、冷たい。何もかもが陰鬱だった。

 それらの中心のような岩の陰から、誰かが立ち上がった。

 人間。

 人間?

 片手には剣を下げているのは、はっきりと見て取れる。髪の毛は長く、身につけているのは鎧ではなく、しかも服とも言えず、ボロ切れに過ぎない。

 顔を俯けたまま、しかしはっきりとした足取りで、その人間が俺の方へ歩いてくる。

 言葉が、出ない。

 驚いたからではない。もちろん、こんな土地に人間がひとりきりでいるのは異常事態だし、その見た目からして尋常ではない。

 ただ、言葉が出ない理由はそれじゃない。

 圧力。

 圧倒的な気配に、言葉が喉から出ない。息が詰まるほどの圧迫感。

 亡霊は一言も発さない。

 人間が近づいてきて、その顔が見えた。激しく汚れていて、全身が泥にまみれている。いや、あれは泥ではなく、切り捨てたものの血に染まっているのか。

 ゆっくりと剣が持ち上げられ、構えが取られる。

 既視感。

 それよりも剣を抜かなければ。

 自分の体がいやにゆっくり、腰の剣に手を伸ばし、柄を握る。

 引き抜く前に、相手が飛び出して間合いを詰めてくる。

 一直線の、何の欺瞞もない踏み込み。

 正体不明の男に俺が剣を抜きざまに切り払うのは、限界まで姿勢を低くして回避され、その姿勢から超低空でさらに距離を詰められる。

 手元で剣を回転させ、俺の足元から天へ駆け上がる飛燕の切り上げを受け流す。

 激しい火花が散り、激烈な衝撃に手から剣をもぎ取られそうになる。

 足を送り、間合いを取ろうとするが、相手も踏み込み、狭すぎるほどの間合いを維持。

 剣術の本来的な間合いとは違いすぎる。少なくとも俺が身につけた剣術とは。

 殴りつけるような一撃を立てた剣で受け止めるが、両手から肩まで痺れが走り、地面を踏みしめる両足が滑る。

 力任せの連続攻撃を、俺はひたすら防御に徹して辛抱する。

 相手がおそらく人間である以上、どこかで必ず息が続かなくなる。そこに勝機がありそうだ。恐慌状態を脱し、冷静さがそんな計算を導き出す。簡単な道理だが、絶対の道理だ。

 連続して火花が爆ぜ、欠けた剣の欠片が頬をかすめる。

 まずい。

 気づいた時には遅かった。

 ウルダから受け継いだ剣は決して質の悪い剣ではない。それに念入りに点検してあった。万全の状態だったのだ。

 しかし正体不明の男が持つ剣は、明らかにこちらの剣の質を上回っている。

 即座に計算が働く。

 一撃でもいい。一撃でも返せれば、そこからこちらの流れに持ち込めるはずだ。

 問題は、相手の攻め手が止まるまで剣が保つかだった。

 受け方を少しずつ変えていく。いつでも反撃が可能なように、かつ、剣を破壊されないように。

 きわどい勝負になる。そうわかった。

 不意に相手の剣が鈍った。息が切れたのだ。

 俺の剣の切っ先が翻る。

 紙一重だったが、俺の勝ちだ。

 光の弧を描いた刃が相手の肩口に食い込み、胸を斜めに走って抜ける。

 致命傷だ。切っ先は深くえぐっている。内臓を破壊した手ごたえがあった。

 相手がよろめき、

 倒れなかった。

 足に即座に力が戻り、眼光が鋭く光る。

 再びの既視感。

 構っている暇はない。

 それよりも何故、胸を断ち割られて死なない? 人間だろうと魔物だろうと、どんな生物だろうと死ぬほどの負傷だ。

 血が、

 流れていない。

 俺は返り血を浴びてもおかしくないはずなのに、相手からは血が一滴も飛んでいない。

 俺は、何を相手にしているんだ?

 人のようで、人ではないもの。

 剣が振りかざされる。

 受けなければ。

 しかしどうすれば勝てる? 首をはねれば勝てるか。本当に?

 思考が乱れる。

 全てが緩慢に見える。

 目の前にいる人の形をした存在が、刃を振り下ろす。

 剣を掲げて、俺はそれを受ける。

 炸裂する火花の小さな粒の一つ一つさえが見て取れる。

 そして、剣が刹那で折れるのも、わかった。

 反動で一歩、二歩とよろめいて、無理な姿勢でさらに後方へ飛ぶ。

 地面すれすれで反転した刃がすくい上げるように俺を胸元を走った。

 痛みではない。

 もっと別の何かが、体に食い込んでいる。

 倒れこみ、それでも顔を上げた俺の眼の前で、とどめの一撃がすでに振りかぶられている。

 死んだ。

 覚悟する余裕などない。

 単純に、事実だけがわかった。

 ただ、それは現実にはならなかった。

 何かが俺と人の形をしたものの間に立ちふさがったのか、すぐにはわからなかった。

 ぼんやりとしていて、揺らいでいる、やはり人の形をしているが、人ではないもの。

 亡霊。ルードだった。

 静寂がやってきて、全てが時間が止まったように静止した。

 どれくらい、そんな時間が続いただろう。

 剣はゆっくりと下ろされ、背中が向けられる。ゆっくりとした足取りで、俺が倒すべき相手は、俺などには興味がないというように、離れていった。

 みっともないことに、俺は安堵し、震える息を吐いた。

 吐いた瞬間、何かがこみ上げてきて、口からあふれる。

 鉄のような匂いがしていて、粘り気があり、喉に絡まる。

 吐き出してみて、それが血だとわかった。

 咳き込み、胸を押さえる。

 手が、沈み込んだ。傷に手が沈んだのではなく、傷の周りの肉がすでに腐敗しているように感じられた。

 錯覚か。視界が明滅して、よく見えない。

 誰かが遠くで何か言っている。

 体を借りるぞ。このまま死なせるわけにはいかぬ。

 誰の声だ? どういう意味だ?

 倒れこみそうになり地面に手をつくが、体を支えられない。

 頬から地面に落ち、その衝撃が俺の意識を根こそぎに奪っていった。



(続く)

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