第12話

     ◆


 歩き続けているうちに太陽は最も高い位置に来て、徐々に傾き始めた。

 俺は亡霊に先導される形で進んでいるのだが、しかし内心、周囲の光景に臆している。

 北部戦域の中でも実際に戦闘が行われている一帯だった。魔物がそこここに倒れており、腐敗している。その腐肉を漁るカラスが数え切れないほど空を飛んでおり、その鳴き声と羽音が幾重にも重なる背景音は不吉すぎる。

 もちろん、空気には濃密な腐臭が漂う、というか、腐臭しかない。

 人間の死体もあったが、あまり直視できない。視界の隅でそれとなく確認するが、服は着ていても、鎧を身につけていないものが大半だ。

 鎧は北部戦域のはずれで生活する俺のような立場のものが、引き剥がして持ち去ったのだろう。

「どこまで行くんだ」

 何度目かの問いだったが、これまでと同様に亡霊は答えようとはしない。昨日の朝と比べれば極端に寡黙だ。その背中を見ていると、ウルドのことが思い出された。ウルドも極端に寡黙、無口だった。滅多に声を発さなかった男の背中に、亡霊の背中が重なって見える。

 眺めていると、何か共通する要素があるようにも見えてきたけれど、錯覚だろう。人間の背中なんて、大抵、似通っているものだ。

 地面を踏みしめたはずが、何かが砕ける感触があった。足が滑ってよろめくが、足を送った先でも何かが砕ける。

 見なくてもわかる、白骨を踏みつけたのだ。北部戦域では一〇〇年を超える戦闘で倒れた人間と魔物の骨が折り重なり、地面と同化している。どこを掘り返しても、骨が出てくるのは間違いない。

 亡霊はさらに先へ行く。

「おい、日が暮れちまうよ」

 返事はなし。

 一応、腰には剣を帯びている。魔物に襲われても対処できるが、ここが普段から生活している北部戦域のはずれではない、ということを忘れてはいけない。次々と魔物を切る経験は積んでいるが、それは対処できる数が相手の場合に限る。

 防衛軍が対処するような魔物の大群が俺の前に現れれば、数の力の前に技の力など無意味だ。あっという間に押し包まれ、戦いなどと呼べる展開にならず、ただ轢き潰されるかもしれなかった。

 しかし亡霊はどこへ俺を導こうとしているのか。こんな戦場に何があるというのか。

「おい!」

(もうすぐだ)

 やっと亡霊の声が頭に直接、届く。

 目的地があるということは、俺を戦場へ誘い出して始末する、という展開は排除できる。はずだ。もしかしたら俺を抹殺する最適な場所までもうすぐ、かもしれないが。

 昨日の今日では、亡霊が俺を殺す可能性を完全には否定できない。

 つい昨日のことだから鮮明に思い出せる。

 亡霊の中には、計り知れない恨みがある。怨念と言ってもいい。

 誰に向けられているかは知らないが、絶対に復讐してやるという強い意志がある。意志などという表現では足りないほどの、強い指向性がある。

 もし俺が使い物にならないとわかれば、すぐに次の弟子を探すはずだ。自分の代わりに復讐を遂げる存在を、是が非でも用意するのが亡霊の意志の一つだろう。

 まだ俺には可能性があるということか。

 下手なことを言ってまた雷撃の直撃を喰らうのは勘弁なので、黙っていることにしよう。

 さらに歩き続け、戦場の奥へと進むうちに、夕日が周囲を茜色に染め始めた。遥か遠くに見える影は、国境長城の輪郭だ。今までに見たことがないほど、はっきりと見えた。

(これだ)

 不意に亡霊が動きを止めたので、夕日と一緒に夕飯と帰路のことを気にしていた俺は、危うく背中にぶつかりそうになった。踏ん張ったが案の定、足元が不安定で、よろめいた時に片手が亡霊をかすめる。実体がないので手は素通りした。

「なんだって?」

 亡霊の横に並んで、その視線の先を追う。

 どこにでもあるような白骨死体が転がっていた。もう肉はほとんど残っておらず、服はボロ切れと化してわずかしか残っていない。

 ただ、はっきりと見て取れるのは、その白骨の背骨に当たる太い骨が、断ち割られているということだ。さらに観察すれば、白骨は上半身と下半身でずれている。

 何かがこの人間を両断したらしい。魔物だろうか。しかし、俺が普段から相手にしている魔物にこんな器用なことはできないから、もっと上位の魔物にでも遭遇したのか。

 不憫といえば不憫だが、北部戦域では起こり得る展開の一つに過ぎない。

「これがどうした?」

(その剣に見覚えがあるだろう)

 剣?

 亡霊が手を挙げ、指差した先を俺は確認する。

 地面に半ば埋もれているから、そこに放り出されて長い時間が過ぎているんだろう。よく誰にも奪われなかったものだ。

 どれ、と手を伸ばそうとして、気づいた。

 気づいた瞬間に俺の手は止まり、動かなくなった。そして微かに震えた。

 剣に、見覚えがあった。

「ウルダの……」

 声が自然と漏れた。手が再び動き出し、剣の柄を握る。土の中から引っ張りあげると、一振りの剣が現れた。

 間違いない。

「ウルダの剣だ」

 ウルダが普段から使っていた剣が今、俺の手元にある。

 信じられなかった。

 信じるしかなかった。

 改めて地面に転がっている白骨を見る。骸骨に生前の面影などない。服はなくなっていて、ウルダの服と共通点を探すのも難しい。靴もなくなっている。

 ただ剣が、剣だけが、その白骨がウルダだと示している。

「これが、本当に?」

 返事がある確信があった。

「この骨になっているのが、ウルダだっていうのか? 本当に?」

 亡霊に問い詰めると、亡霊は軽く顎を引くように肯定した。

「どうしてそうとわかる」

(見ていたからだ)

 見ていた?

 俺の困惑をよそに亡霊は言葉を続ける。

(お前は知らなかっただろうが、私は常にウルダのそばにいたのだ。ウルダは私の制止を無視した。そして死んだ)

「魔物にやられたのか? ウルダはそれなりに剣術に通じていたはずだ。それに仲間もいた」

 いや、その仲間は、ウルダが急にどこかへ駈け去った、と俺に話さなかったか。

「ウルダは何を見たんだ?」

 気後れをすっかり無くした俺に、亡霊は冷静に応じる。その冷静さは、冷淡にも思えた。

(亡者だ。ウルダはそれを無視できなかった。ウルダの中には、私が想定していなかった感情が膨らんでいたのだ。レイスのこともそうだ)

「レイス……?」

 亡霊の視線は判然としない。憔悴としているのか、悔いているのか。

「前にウルダが切ったレイスのことか?」

(ウルダはいつの間にか、正気を失っていた。レイスを切ったこともそうだ。あの女は何も悪くはない。ウルダは私とは違うものを見ていたのだ。私の意志が、彼を歪めたのだ)

 どう言葉にすればいいか、わからなかった。

 今の話で、見えてきたことはある。

 ウルダには亡霊が見えていた。むしろ、ウルダは亡霊の弟子であり、ウルダの剣術は亡霊が仕込んだものなのだ。ウルダのそばにレイスを置いたのも、亡霊だ。

 全てが俺と同じ。

 ウルダが正気を失ったのを、亡霊は自身の影響だと口にした。

 ウルダは、亡霊に課された役割と何かの間で、精神が破綻したのではないか。

 俺はまだ亡霊の薫陶を二年も受けていない。しかしウルダはそうではなかった。きっと十年、二十年、あるいはもっとという長い時間を、亡霊と共に過ごし、ひたすら剣術を教え込まれ、復讐の道具として支配され続けたのではないか。

 そんな日々に耐えられるものが、いるだろうか。

 俺自身のことを想像するなら、耐えらない気がした。どうやったら耐えられる?

(しかし、復讐はなさねばならぬ)

 自分の意識の中に直接に聞こえているはずなのに、亡霊の言葉は遠くから響くように意識された。

 人を一人、狂わせてでも達成するべき復讐とはなんなのか。

「誰に復讐すればいいんだ?」

 片手に剣を掲げたまま、俺は亡霊に問いかけた。

「その復讐が達成されれば、全てが終わるのか」

(何も終わらんよ)

 亡霊の声はやはり遠い。

(やっと始まるだけのことだ。本来の日々がな)

「あんたはもう、死んでいるのに?」

(死んでいないと言ったら、どうする)

 自然、亡霊の方を振り返っていた。

 亡霊は俺を見ず、どこか遠くへ視線を向けている。俺もそちらを見たが、すでに暮れかかった日の光の中では、ほとんど全てが薄闇の中に溶け込んで、判然としなかった。

「俺の復讐が、一つできたよ」

 口をついて出た言葉に、亡霊が緩慢にこちらを振り返る。表情はやはり光の量が乏しいがために、見て取ることはできない。

「ウルダのオッサンの仇を討つ」

 亡霊はすぐには言葉を発さなかった。

「それから、あんたの復讐とやらを遂げさせてやるよ。それでいいだろう?」

 やはり亡霊は沈黙していたが、短く、帰ろう、とだけ言った。

 俺は頷いて、ウルダらしい白骨の周囲を見て、鞘を発見した。その鞘もまた見慣れたものだった。

 育ててくれた恩義は、仇を討って返すとしよう。

 他に出来そうなことは、何もない。

 汚れた鞘に剣を戻し、片手に下げて俺は歩き出した。亡霊が先を進むのがぼんやりと見える。

 いや、この時、不意に全てが滲んで見えた。

 目元を服の袖でこすっても、視界はすぐにまた滲むのだった。

 俺は目元をこすりながら、歩を進めた。

 視界はずっと、滲んでいた。



(続く)

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