第10話
◆
その夜も俺はレイスと床を一緒にしていた。
いつの間にか眠っていて、不意に目が覚めた時には深夜のようだった。空気はひっそりと静かで、何もかもが眠りについているような時間帯だ。
しかし闇の中で、かすかに二つの光が灯り、こちらを見ていた。
すぐ横にいる、レイスの瞳。
「ねえ、アルタ」
俺が目覚めたことを察したのか、と思ったが、どうやらレイスは独り言を言っているらしい。家の中はあまりに暗く、俺の顔が見えないのだろう。さりげなく瞼を閉じ、恐る恐る薄眼にする。もちろん、レイスの表情はうかがえなくなったが、瞳が微かにきらめくのだけは見て取れた。
「どうしてあなたの子どもが私に宿らないのかしらね」
どきりとした。
危うく呼吸が乱れそうになり、必死の自制心で寝息を装う。うまくいくとも思えなかったが、レイスの様子に変化はなかった。俺の覚醒に気づいているのかいないのか、判断がつかない。
それでも彼女は言葉を変わらない調子で続ける。
「あなたの子が生まれれば、私の役目の一つは終わるのにね。もっとも、その時は子育てをしなくちゃいけないわけだけど」
今度の衝撃は、遅れてやってきた。
役目。
俺の子を産み、育てるのが役目?
それは俺自身のことを想起させた。
つまり、ルードを名乗る男の亡霊が俺に課している、曖昧模糊とした使命のことだ。
俺に何らかの役割があるように、レイスにも役割があるということか。
その役目が、俺の子を産み、育てることだというのは、あまりにも突拍子がない話だ。レイス自身が子どもを欲しがっている、という様子ではない。何より、俺の子であることが重要らしかった。誰の子でもなく、俺の子というのは、何故だ?
レイスの手がこちらに伸びてきて、優しく俺の額に触れた。ひんやりとした感触。俺は震えそうになる体を、ぐっと腹の底に力を込めて堪えた。
「私、あなたとはあまり長く一緒にいられそうにないわ。役目を忘れてしまいそうだもの。私なんて、作られた存在なのにね。本当に、残酷な話」
俺は、意識があることを示すべきか、悩んだ。瞬間的に目まぐるしく思考が回転した。
レイスの役目も、彼女が自分のことを、作られた存在、と表現したことも、問い詰めたかった。
いや、問い詰めるべきだったのだろう。
俺の中にはいつの間にかレイスに対して愛情のようなものが芽生え、大きく成長している。それはレイスも同じだと今までの言葉でわかった。彼女の本来の役目、目的を逸脱するほど、彼女は俺のことを考えている。
だったら、同じ方向を向いている二人の気持ちを確かめ、最善の選択肢を二人で探すべきだ。
なのに俺は、この時、眠っているふりを続けたのだった。
レイスはきっと、どこまでいっても自分の役目を投げ出せない。
彼女は自分がそのために作られたことを知っている。そしてその事実には、俺と二人で何もかもから自由になる、全てを放り出して逃げ出すという可能性を、完全に否定する力があるように感じられた。
人間には、本来的には何の役目も使命もなく、生まれてくることそれ自体にも意味はない。
ただ生まれ、ただ生きる。もし役目や使命のようなものがあるとすれば、悪をなさずに生きる、というくらいのものだ。
しなくてはいけないことなどなく、絶対に成し遂げなくてはいけないものもない。
努力も、忍耐も、放り出せてしまう。生真面目に生きることも、誠実に生きることも、放り出せる。闇に飲まれ、破滅しない限り、闇に限りなく近いところまで沈むことさえできる。
でも、レイスは違う。
彼女は人間のはずだけれど、人間に許されていること、誰にも縛られることのない部分が、何者かに強く、強く拘束されていると、何故か俺は確信した。
レイスは俺を選ばない。
レイスは、俺より役目を選ぶ。
胸の内が冷えていくのがわかった。俺の中の愛情は、報われることはない。こうして二人で欲を発散しているようでも、それは俺だけが自分の情動を発散しているだけなのだ。
レイスはただ役目のために俺を受け入れ、俺の相手をしている。
愛情があったとしても、それは意味を持たない。愛情があるとしても、同時に同じ程度の、義務がそこには並存している。
「アルタ、愛しているわ。早く、楽になれるといいわね」
すっと頬から額へ移動した手が離れる。ぼんやりとしか見えない視野の中で、レイスが寝返りを打ち、彼女の顔は見えなくなった。俺も見えていないだろう。油断せずに呼吸を整え続け、レイスが眠りに戻るのをじっと待った。
待ちながらも、思考は続く。
レイスに役目があるように、俺にも役目があったのか?
あの亡霊が俺を鍛えているのも、俺に、俺が背負う役目を達成させるためか。
ウルダは、それにどう関係する? 俺はウルダの後を継ぐ存在、そんなことをいつか、レイスが言わなかったか。ということは、俺はウルダの後継者に成るべくして生まれたのか。
待て、待て待て。
レイスはさっき、俺の子を産むのが役目だと言った。
そこに、俺とウルダの関係が重ね合わせられるのだろうか。
例えば、ウルダの子がいないから、俺がどこかから拾われてきて、後継者に据えられた、とか。
いいや、違う。
そう、レイスという名前の中年女がいたじゃないか。ウルダが切り殺した女。
あの女とウルダは、夫婦のようだった。
ぞくりと全身に鳥肌がたった。呻き声が漏れそうにさえなる。
あの中年女のレイスも、少女のレイスと同じ役目を与えられていたのではないか。
ウルダの子を産み、育てるという役目。
しかしウルダの子を産まなかった。それどころか、ウルダはレイスを切り殺した。
恐ろしい想像が走るのを止められない。
ウルダはレイスの本心に気付いた。あの中年女が自分のことを愛しているわけでもなく、単に子を欲しがっているだけだと。何者かの意思によって動く、道具のような女だと。
だから切った。
だから?
俺が知っていることだけでは足りない。何か、足りない要素がある。今、俺の中にある情報ではあまりにも不確定な要素が多すぎた。俺が知る限り、ウルダは残酷な人間ではない。中年女が気に食わなければ、遠ざけるくらいの分別はあったはずだ。
ウルダは何を考えたんだろう。何を知っていて、何が彼を突き動かしたのか。
どれだけ考えを進めても、埋められない溝がある。俺が知らないことが、まだ多くあるようだった。
俺のすぐ横で、少女のレイスが寝息を立て始めた。慎重に寝返りを打って、俺は彼女に背中を向けた。
役目。使命。役割。作られた存在。
誰が本当のことを知っている?
ルード。あの亡霊。
レイスはきっと、俺に本当のことは話さない。もしかしたら、そもそも話せない。
なら亡霊に直接、問いをぶつけるまでだ。
目を閉じて冷静さを意識すれば、剣術の稽古のせいだろう、自然と呼吸は整い、心は平静になる。
そのはずなのに、鼓動がいやに強く感じられる。肩が震えている錯覚を伴うほど。もしかしたら本当に、肩は震えていたかもしれない。
眠れなかった。
今は眠ろう。明日にならなければ、何も始まらない。
いくら念じても、この夜の俺は結局、眠れなかった。
レイスが明け方に起きだし、朝の支度を始める。俺は普段よりだいぶ早かったが、わざとらしい声など漏らして、起き上がった。何も気づかなかったらしいレイスがこちらを見て「おはよう」と微笑む。
俺は笑えただろうか。
「おはよう」
言葉は、普段通りの発音のように自分では思えた。やはりレイスも気にした様子もない。
「まだ少し早いから、休んでいれば」
そうするよ、と答えて、もう一度、布団に寝そべった。
どうやらレイスは昨夜、俺が何もかもを聞いてたことを知らない。
後ろめたい思いと、自分が裏切られているという怒りのようなものが、心の中で渦巻いていた。
はっきりしていることは、レイスに罪はない、ということだ。
レイスを操っている存在こそが、間違っている。
屋外から鳥の鳴き声が微かに聞こえる。鳥など北部戦域に入るわけもないのに、必ず朝には鳥がさえずる。
俺は決意していた。
亡霊に何もかもを吐かせてやる。
強い気持ちを胸に俺は布団から改めて起き上がった。
目に入る光景はいつの間にか見慣れていた光景だった。
それが今日だけは、普段と少しだけ違うものに見えた。
(続く)
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