第9話
◆
剣術の稽古の最中だった。
すぐそばで笛の音が鳴る。魔物の接近を告げる笛の甲高い音。
俺は稽古を中断して、すぐそばの建物へ戻ろうとした。
(待て)
亡霊に呼び止められて足を止めたのは、この実体を持たない存在のことを全くの日常の一部にしていたせいだろう。亡霊は魔物に蹂躙されても死なないだろうが、俺は違うし、レイスも違う。
少女と亡霊が現れてから、魔物の襲来は何度もあった。その度に野戦陣地へ避難していたのだが、何故、今は止めるのか。
俺の視線の先で、亡霊が身振りで俺が鞘に戻したばかりの剣を示す。
(魔物を相手に戦って見せよ)
「戦うって、ここで、俺一人でか? 馬鹿な。自殺行為だ」
咄嗟に反論する俺にも、亡霊は全く動じなかった。
(そこらの魔物など、自在に切れるだけの技量はあるはずだ。いずれ実戦の場には立たなければならぬ。それが今でも悪くないと私は見た)
「私は見たって、戦うのは俺だし、もしかしたら死ぬのも俺だ」
(安心せよ、その時は助力してやる)
俺は冷静になる努力をして、思考を巡らせた。
魔物は人間の兵士たちのような連携は基本的にしない。しかし戦うにあたって一対一の状況しか出現しないわけでもない。
魔物の襲来は、全体で見れば数十体、規模が多ければ一〇〇体を超える。俺がこの場に踏み留まっていて、どれくらいが俺に興味を示すかは謎だが、最低でも十体は相手にしないといけないのではないか。
十体を次々と切る?
できるか?
亡霊の助力というのを計算に入れるのはやめにして、想像を膨らます。
どこまでいっても想像は想像だった。
俺は自分の実力を知らない。
これが好機か。
それとも破滅に飛び込むだけか。
「やろう」
俺はそう答えていた。言葉が自然と続く。
「レイスが管理している畑のそばで戦いたくないから、移動するぞ」
(構わぬよ。レイスは野戦陣地とやらへ逃せば良い)
俺は頷いて、ちょうど家から出てきたレイスに事情を話した。反対されるかと思ったが、少女はまるでちょっとそこまで散歩に行く相手を送り出すように、肩を叩いて言った。
「ま、死なない程度に頑張りなさい」
なんとも変な女である。
レイスが駈け去っていくのを見送ってから、俺は北のほうを眺めて魔物が到来するのを待った。
「なあ」
俺はすぐそばにいる亡霊に声をかけた。他にやることもなかったし、緊張を紛らわせたい気もあった。
「俺が死んだら、どうする?」
(死なせはせんよ)
亡霊はこんな時でもそっけない。
「俺を鍛えたことが無駄になるからか?」
(お前しかいないからだよ、我が弟子)
俺しかいない? 弟子が、だろうか。
「まあ、あんたが他の弟子を育てているとも思えないし、仕方ないか」
(違う。お前に課せられた使命は、お前だからこそ意義があるのだよ)
「はあ? 俺だから意義があるって、どういう意味だ?」
(話は今度だ。来たぞ)
亡霊の視線の先を追うと、確かに魔物が向かってくる。いつものごとく、てんでんばらばらに、どこか無様な走り方でこちらへやってくる。
剣を抜いて、しかし、やり場に困る。
気合が入らないわけではない。しかし、気が抜けているわけでもない。
緊張と弛緩の釣り合いが取れている、不思議と落ち着いた状態だ。
「行くぞ」
俺はゆっくりと歩を進め、魔物を迎え撃った。
最初の一体は、言葉ではない、喚くような声を発しながら俺とすれ違い、すれ違った次には首がごろりと地面に転がっていた。一歩二歩と先へ進んだ首のない胴体が重い音を立てて倒れこんだ。
そんな全てを見ている余裕はない。次の魔物が来る。
数を勘定するようなことはしなかった。
集中が高い状態で維持され、周囲の状況が手に取るようにわかった。どう動けばいいかも、自然と想像できた。そして想像通りに、全てが動いた。
気づくと、俺は視界にかすかに見えるいくつもの線を意識しており、そのうちの一つを剣が走っているのに気づいた。
その筋は目の前にいる魔物を倒す剣筋の中でも、最も早く、最も合理的な筋らしい。
ただ、線はいくつも見える。どれを選べばいいかは、直感頼りだ。
何度か、魔物を仕留め損ない、逆襲を受けた。だが、浅手の傷を負うだけで済んだし、そうやって傷を負うごとに集中がより一層、研ぎ澄まされていく。
どれくらいの時間を戦ったか、気づくと魔物は周囲からいなくなっていた。
代わりに二十体ほどの魔物の死体が周囲に散乱していた。
俺が切った、のか。
空気に腐臭が濃密に立ち込めていて、クラクラした。気づくと息が上がっていたが、ここで深呼吸したら嘔吐しそうだった。細く息を吸い、細く吐く。少しずつ思考が回り始める。
どうやら魔物の襲来を完全にやり過ごしたらしい。全身の傷を確認するが、どれも大したことはない。
(まずまず、といったところかな)
亡霊の声が頭の中で響く。視線を巡らせると、すぐそばに亡霊は立ち尽くしている。
どこか得意げな姿勢で、こちらを眺めている。
(助力の必要はなかったようだ)
「俺が」
疲労のために言葉が掠れる。
「俺が全部、仕留めたのか?」
(他に誰もおるまい。全て、お前の剣が切ったのだ)
改めて、もう一度、自分を取り囲んでいる惨状を確認した。
首を落とされたもの、胴を輪切りにされたもの、バラバラに解体されたもの、魔物の死体は様々だ。全てに共通しているのは、斬撃と刺突によって仕留められているということ。
本当に俺がやったのだ。これだけの魔物を。
自分の所業に自分で恐怖するのは、傲慢だろうか。
剣を手に取った時から、こうなることは予見できた。
剣は敵を斬るための道具だ。自分を守るために、などいう理屈もあるだろうが、自分を守るために相手を切るというのは言い訳に過ぎない。どんな理由があろうと相手を切ることは、相手を切る、ということ以外の何物でもない。
魔物だから躊躇わずに切っていい、という理屈もまた理屈だった。
両手に、魔物を切った時の感触が蘇ってきた。柔らかいようで、不快な手応えがあった。
命を奪う感触は、きっと、両手から消えることはないだろう。
(苦しいと思うか)
頭に響く声は冷ややかで、硬質だった。
(優しいな。優しいが、切らなければお前が死ぬのだぞ)
生きるために殺す。
まともじゃない。
でも俺は、知っているはずだ。この世界、北部戦域における絶対の原則を。
弱きものは死ぬ。
強きものだけが生きる。
奪い合いなのだ。命の。
(優しさを捨てよとは言わぬ。しかし、割り切れ。お前には使命がある)
「使命か……」
俺は視線を亡霊へ向け直した。
俺は魔物の返り血にドロドロに汚れているのに、亡霊の姿には何の汚れもない。
当たり前だ。
俺は生きている。俺は人間で、目の前にいるのは、人ではない。
「俺は使命とやらを果たすための道具かい? あんたは、そのために俺を鍛えているわけだ」
(そうだ。だが、この受け継がれてきた使命を断ち切るものが、必要だ)
「使命を、断ち切る? それは使命を果たす、ということだろう」
(全てが絡み合っているのだよ。アルタ、お前にはいくつもの使命があるのだ。受け継がれてきた使命は、単純ではないのだ)
是非とも聞きたいな、と言おうとしたが、亡霊が不意に視線を明後日の方向へ向けたので、俺もそちらを見やった。
こちらへ歩いてくる小さな影は、レイスのものだ。ゆったりとした足取りで、まるで俺の無事を確信しているようだった。
胸の中にあふれた感情は、愛おしさ、というべきだろうか。
本当に色々なものが変わってしまったのだと、俺は打ちのめされた思いだった。
ウルダと二人だけの、先のないような生活は、今はもうどこにもない。
レイスと亡霊と俺の、奇妙で歪な生活がここにある。
使命とやらを成し遂げれば、俺はどうなるのだろう。何かから解放されるのだろうか。でも、何から?
抜き身のまま手に提げていた剣を鞘に戻し、俺はレイスの方へ向かって歩き出した。
彼女も俺に気付いたはずだが、足を速めることはない。まったく、肝の太い女だ。
声が届く距離になると、彼女はちょっと小首を傾げた。
「もっと悲惨かと思ったけど、五体満足で、大した怪我もしていないようね」
「浅手だよ。しかし治療が必要だ」
「じゃ、じっくりと治療してあげましょうね」
レイスがにんまりと笑い、俺もちょっとだけ笑うことができた。
すぐそばのぼろ家まで二人で並んで歩いたが、レイスは俺に戦いの顛末を聞いたりはしなかった。俺が魔物ごときを相手に苦戦することはないと信頼されているのだろう。俺の方からも、別段、戦いについては話さなかった。
家に戻り、レイスが俺の傷を治療し、そのまま翌朝まで二人で過ごした。
翌朝、布団の中で裸で目覚めた俺は、いつものようにレイスの姿を探し、その姿を炉の目に見出して、ほっと息を吐いた。
レイスがこちらを見て、「傷の様子を見ましょうね」と言った。それから付け足すように、
「剣を研いでおくように、とのことよ」
と言った。
そうか、剣の切れ味を今まで、真剣に考えたことはなかった。ウルダが剣を研いでいるのは見たことがある。道具も揃っているはずだが、方法を知らない。
そのことをレイスに話すと彼女は「師匠に聞きなさい」とそっけない。レイスも包丁は研いでいるはずだが、剣を研ぐのとはまた違うということらしい。
結局、この日も白湯を飲んで表へ出て、亡霊と対面した。
剣の研ぎ方を教えてくれ、とこちらから頭をさげると、亡霊は顔をしかめてから俺の頭の中で小さく呟いた。
(実際はまだ素人か)
こちとら、剣術の稽古を始めて一年も経っていなんだぞ。
文句はぐっと飲み込んでおいて、この日は剣を研ぐことに費やされた。素人の仕事としては、それなりの出来栄えだったと思う。
(あとは実戦と稽古の繰り返しだ)
日が暮れかかる頃、亡霊は普段通りの口調で言う。
(機が熟したとなれば、お前に伝えるべきことを伝えよう)
「いや、今、教えてくれよ。あんたは色々と隠し事が多すぎる」
咄嗟に突っかかっていたが、亡霊は(何事も、いずれな)とだけいって、あっさりと姿を消した。
家の方からは夕食の匂いが漂ってくる。
俺は亡霊の都合の良さに腹を立てながら、家に戻るしかなかった。
レイスの料理はうまかった。そして夜は、熱かった。
それでも全てを先送りにしていることで生じる焦燥感は、消えることはなかった。
(続く)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます