第8話
◆
やってしまった……。
いくら後悔しても遅い。こういうのを後の祭り、というのだろうか。
ぼろ家の布団に入っている俺だが、古びた布団が肌を撫ぜるのはやや不快だ。
しかしすぐ横にピタリと寄り添う少女の肌は、心地良いと言わざるをえない。
育ての親が消え、少女が唐突に現れ、亡霊が出現し、剣の稽古を始め、何故か少女に迫られて、それから既に半年が経とうとしている。
変わったことはほとんど何もない。俺はひたすら棒を振り続け、少女は俺の生活の面倒を見て、亡霊は亡霊のままだった。
ウルダの消息に関する情報は何もない。二人で暮らした家に戻ってくることはなかった。たまに話をする近くに住む人々も、ウルドを見ていなかった。
少女、レイスは夕方になるとほとんど毎日、俺に迫り続けて、どうしてそこまで執着するのか、さっぱりわからなかった。あるいは女というものはそういうものか、と思ったりもしたけれど、どちらかといえば男の方がそういう性向のような気もした。
レイスを見ていると、俺の方がどこかおかしいような気がしてきて、この半年、迷い続けていたわけだが、結局、落ち着くところへ落ち着いたことになる。
欲望とは恐ろしいもので、我を失うものだと実際に体験して理解できた。
そうしてすることをした後、布団に寝転がって色々と思い出しているわけだが、すぐ横ではレイスは静かに寝息を立てている。熟睡してるようだ。
ウルダの生死を確認もせずにいることに後ろめたいものがあったけれど、それは半年という時間をかけて、決着がつきつつある。
北部戦域で半年も行方不明になるということは、死んだ、ということだ。
ウルダの身に何があったのかはよくわからないままだけど、死んだだろうという判断の前では、原因や理由を探すのも虚しい。
ずっと前、レイスがウルダのことを、復讐者、と表現したような気がする。俺も同じように復讐者になるように宿命づけられているようだけど、今もまだ誰に報いを受けさせるかは知らない。
ただ、もしかしたらウルダは北部戦域のどこかしらで、復讐する相手を見つけた、という可能性はある。それでも疑問は残る。北部戦域の戦場にいる人間は限られる。何より、復讐の道のりは数十年に及ぶらしいとなれば、現実的に考えて、北部戦域で目的の相手に遭遇するなどありえない。
北部戦域の戦場で戦っているのは防衛軍が主体で、防衛軍でも数十年も戦い続ける兵士なんているわけがない。仮にいたとして、ウルダと遭遇する確率はやはり極めて低い。偶然の上に偶然が重なっても、まだ足りないだろう。
結局、ウルダは俺にとって、育ててくれた恩人ではあるが、中途半端なまま去ってしまったことになる。
すぐ横でレイスがわずかに声を漏らす。どきりとするが、目覚めることはなかった。
自分でも不思議だが、時間というものは多くのことを変える。俺はレイスのことを不気味に思っていたはずが、今では好いているといっても差し支えない。まぁ、日常的にレイスの世話になっているわけで、対等な立場ではないのが後ろめたくはあるが。
俺も少し眠ろうと目を閉じると、眠りは密やかにやってきた。意識に影が落ちていき、体の感覚が解けていく。
「アルタ」
不意の声に目を開くと、すでに室内には光が差し込んでいた。隣にレイスの姿はなく、探し求めると、炉の前で鍋をかき混ぜている。視線はこちらを見て、やや咎めるように鋭い。
「さっさと服を着て、稽古に行きなさいね」
母親のようなことを言う、と思ったけれど、俺は本当の母親を知らないので、そういう想像だ。母がいればこんな感じだろうか。まさかレイスに母の幻想を重ね合わせるとは、我ながら気色悪い。
起き上がって服を着る。最近は顔を洗う習慣ができたので、洗顔の後に白湯をもらう。
器の中の白湯を少しずつ、唇を湿らすように飲みながらレイスの様子を見るともなく見た。こちらに背を向けて料理の最中だが、頭の中では昨日の夜のことがある。
なんとなく彼女の尻に手が伸びそうになったので、慌てて理性で制止する。
どうも頭がお花畑になってしまったらしい。自重しよう。
空になった器をレイスに手渡し、俺はもう手に馴染みすぎている棒を手に家を出る。
亡霊が仁王立をして待ち構えていた。
(始めるがいい、我が弟子よ)
傲岸不遜な態度にももう慣れた。
棒を構え、型を次々となぞっていく。
半年で、亡霊が示した型の全ては体が覚えていた。もう姿勢は乱れず、構えは盤石だ。足の送りは最適で、視線の配りさえも隙はない。
十五の型を全て繋げて、一息に連続させる。呼吸法さえも変わっていた。
最後の振りが地面すれすれから棒の先を天に向けて駆け上がらせ、即座に落雷の打ち下ろしとなる。
棒は地面に触れる寸前で、ピタリと停止していた。
構えを解き、細く息を吐く。
(悪くない)
亡霊はまんざらでもないような声を漏らす。
(ここまでたどり着くのに、三年は覚悟していたものだが、なるほど、悪くはない)
まったくなんでもないことのように言うが、俺は幾つかの意味で驚いていた。
一つは自分にそんな才能らしいものがあるとはつゆと知らなかったこと。
もう一つは、亡霊が三年、いや、もっと長い期間、稽古を継続するつもりだったことだ。もし三年間、ひたすら棒を振ることを強制されていたら、気が狂ってもおかしくない。大抵の人間は耐えられないだろう。
自分の才能に感謝するのも変だが、苦痛を強制されることを回避した素質に感謝せずにはいられない。
そんな俺の内心など知らない亡霊は、さっさと次の段階へ進もうとしている。祝杯でも上げたいところだけど、亡霊からすれば棒を使った訓練など序の口なわけで、めでたくもなんともないのだろう。
(お前の家に剣があるはずだ。それを持ってこい)
「剣? あれは俺の剣じゃない。ウルドっていうオッサンの剣だ。俺の育ての親の」
その時、違和感が生じたのはわかった。
亡霊の表情だ。その顔に不意に浮かんだ感情はなんだったか。違和感はそれが原因だろうか。それともほんのわずかな間、亡霊が口を閉じたのが理由か。
わからなかった。
わからない俺を無視して、亡霊は身振りをつけて指示する。
(誰の剣でも良い。あるのなら持ってこい。早く)
抗弁しても意味はなさそうだった。仕方なく俺は建物の中へ戻り、この半年の間、誰も触れずに壁に掛けてあった二本の剣のうちの一振りを手に取った。
壁から外してみると、思ったよりも軽い。そう、あの金属製の鍬と大差ない。考えたこともなかったが、同じような長さだから当たり前か。剣は俺の背丈に対してやや長い気もしたけれど、もう一本も長さは変わらない。
表へ出ると、満足そうに亡霊が頷いた。
(抜いてみよ。そして型を全て、行えるようになれ)
言葉の調子でわかるが、剣と棒ではまるで違う、ということらしい。
俺は無言で鞘から剣を抜いて、構え、型をなぞろうとした。
最初から失敗して、切っ先が地面に落ちて土に食い込んだ。
(五日もあれば良かろうよ。励め)
亡霊の言葉に、文句を言おうとしたが、視線を送った時にはすでに亡霊の姿は影も形も無くなっていた。
一人での稽古はもう日常だ。
三日で身につけてやる、と内心で決めて、俺は剣を振り始めた。
不思議な現象が起き始めたのはこの時からだった。
視界に、目に見える世界にうっすらと線のようなものが見え始めた。一本の線があるわけじゃない。無数の、数え切れないほどの線がある。それが剣を降り始めると、急激に数を減らし、最終的には全部が消えてしまう。
目の病かと思ったけれど、そうでもないらしく、遠くが見えないとか近くが見えないとかではなく、また像がぼやけるとかでもない。そもそも線が見える時と見えない時がある。
線のことは脇に置いて、とにかく俺は剣の長さ、重さ、重心を理解するのに没頭した。朝食もそこそこに稽古に戻り、一日中、一人で剣を振り続けた。夕食にレイスが呼びに来て、その後にも月明かりの下で剣を振った。
この日はレイスは俺を誘わなかった。
三日後、俺は完璧に剣を使いこなせるようになり、身につけた基礎の十五の型は自在に繰り出せるようになった。亡霊は現れず、それでも俺はひたすら稽古に没頭した。
俺が剣を初めて手にとって五日目の朝、亡霊が待ち構えており、俺が型を乱れもなく披露するのを見て、満足げに頷いたものだ。
(では、また別の型を教えよう、我が弟子よ。まだ実戦には早かろう)
また型か、とは思わなかった。
実際の剣を手にとったことで、俺の意識は一変していた。
棒でも魔物は倒せるが、剣ならもっと容易に倒せる。棒を振るのは遊びだが、剣を振るのは違う。もちろん、今まで真剣に棒を振ってきた。だけどどこかで、実際の剣術とは違う気がしていた。
他人の命を奪う技であっても、棒を持っていてはどこかに甘いものが漂う。
剣を手に取ること自体が殺意の表明なのだと、俺は理解していた。
そして剣を取ってしまえば、自分の死さえもより現実になる。
鍬を持って魔物を倒した時に近い、緊張と恐怖、悪寒、そして興奮がないまぜになった感覚が、剣の柄を握った時、体を即座に支配するのがわかる。
生きるか死ぬかの狭間に立つにあたって、努力を惜しむ理由は少しもない。
どれくらい時間がかかろうと、稽古を惜しむ理由はないのだ。
俺はこの時に本当の意味で剣士に憧れ、その道を選んだことになる。
剣を抜くことには、大きな意味があった。
それはつまり、ウルダが俺に剣を触らせなかった理由でもあったかもしれない。
自分と同じ道を歩むな、というような。
でも俺はもう、剣を抜いていた。
第一歩は、もう踏み出している。
自分自身の意志で。
(続く)
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