第7話
◆
ルードと名乗る亡霊の指導は、終わりがなかった。
途切れもなかった。
俺は朝起きると、レイスが用意した白湯を飲み、次には棒を手に取って外へ出る。亡霊は待ち構えていて、挨拶もそこそこに稽古が始まる。実際的な構えの取り方から始まり、初歩の初歩、足を送りながらの素振りを繰り返す。
そうこうしていると朝ごはんになる。亡霊に食事はいらないのは助かるけれど、それでも食品の在庫は常に心もとない。
食事が終わるとすぐにまた外へ。亡霊の指導のもと、棒の振り方、足の送り方を徹底的に反復する。
そのまま小休止を挟みながら、夕方まで稽古を続ける。レイスが何をしているかといえば、俺の代わりに畑仕事をしている。特に苦労しているようではないし、むしろ慣れている手つきに見えた。どこで身につけたんだろう。
数日に一度は、レイスはどこかへ出かけていく。俺は構っている余裕もないので、朝に見送り、夕方に出迎えるだけだ。ちなみに稽古の最中によそ見をすると亡霊の不可視の攻撃が待っている。
レイスは帰ってくると、どこからか武具をいくつか手に入れてきているから、つまり戦場へ忍び込んでいるらしかった。女で、しかも武装らしい武装をしていないのに戦場に入り込むとは、正気の沙汰ではない。
かといって本人は普段と何も変わらない態度だから、仕方なく出掛けているとか、恐怖を感じているとか、そういう気配は微塵もない。
俺は北部戦域の戦場に実際に踏み込んだことはない。
想像しているだけだけど、きっと人間や魔物の死体がいくつも転がっていて、息をするだけで吐き気を催すような、濃密な血潮の匂いと、粘りつくよう腐臭が立ち込めているんだろう。
思い描くだけで悪寒がするような光景だが、レイスは平気らしい。そんなところも、少し、普通とは違う感覚の持ち主に思える。
一日の稽古が終わる頃には、レイスは夕食を用意し終わっている。俺は建物の横手で簡単に汗を流す。世の中には湯を沸かして入る習慣があるらしいが、ここでは水を浴びるのがせいぜいだ。その水でさえ、運ぶのに大変な労力がかかる。今はその水汲みも、レイスがやっているけれど。
というわけで、俺の生活は一変したと言っていい。
慣れない剣術を身につけることだけが、俺に与えられた新しい日常だった。
棒を振るのは難しくない。金属製の鍬の方がはるかに重いので、木製の棒など容易に振りまわせる。
それなのに一日が終わるとずっしりと疲れているのは、ただ棒を振ればいい、というわけにいかないからだ。
剣術は相手を殴りつけるわけではない。
無駄を削ぎ落とし、最適な動きで、一撃をもって相手を仕留めるのが理想形である。
それは俺にもわかる。わかってはいても、素人の体は剣術というある意味では非日常の動作を選択できない。
俺が教え込まれているのは、剣術にもたどり着いていなかった。
足運びが違う、足の位置が違う。亡霊はそう言っては俺の足の位置を修正し、その度にビリビリと痺れが走る。やり直しても、また同じことを言われる。
ただ足の位置を修正していくだけのことが、精神的にも肉体的にも疲労を強いる。
(足の送りなど、どうでもいいと考えているだろう)
亡霊は休んでいる俺のそばに仁王立ちして、説教じみた話を耳にタコができるほど繰り返す。
(剣術の足の送りは、姿勢を整え、次の一撃を打ち込むための最適な構えを自然と取るのに必要だ。また、乱戦においては、次に相対する敵に万全の態勢で向かっていくのに欠かせない技能になる。構えや姿勢が乱れていれば、どのような一撃でも敵を完全には仕留められず、仕留めるためにもう一撃を加える余裕があるかは運任せになる)
仰せのままに、と冗談めかして返したことがあるが、真剣になれということだろう、不可視の力で跳ね飛ばされたのでそれきり俺は冗談さえも封印していた。
想像もできていなかったが、毎日、毎日、これが続いた。
終わりがないし、休暇もない。
亡霊は異常な忍耐力というか、俺への訓練を連日続けることが当たり前と認識しているらしかった。そして、ことあるごとに諭すように言う。
(基礎の訓練は常に反復することだ。これはひとかどの技を身につけられたとしても、やめることはできない。やめてはいけないのだ。足の運び、姿勢、構え、振り、それらの基礎を合わせたものが型だ。型を繰り返すことは、基礎の基礎を繰り返すことに他ならない)
かといって、亡霊が俺に型を教えるかといえば、教えることはない。まだその段階ではない、ということだろう。
時間だけが過ぎていく。
長い長い一日が積み重なり、そのうちに一ヶ月、そして二ヶ月が過ぎた。
ウルダに関する話は聞こえてこない。もっとも、俺が棒ばかり降っているのと変な少女が現れたせいだろう、近くに住むものたちは以前よりも近づいてこない。もしかしたらウルダが行方不明になり、俺もおかしくなったと思われているのかもしれない。
商人は何度か来て、レイスが回収した武具を二束三文で買い取って行った。その銭のおかげで、俺はもう少しは生きていられることになる。しかしたんまりと銭があるわけではなかった。
いつからか、俺は夜遅くまで一人で棒を振っていた。
まさしく基礎練習だ。こんなことをして何になる、と思う一方、こんなことをしてでも早く終わりにしたい、とも思っていた。
真っ暗闇の中で、雲間に見える星空の下で棒を振っていると、ウルダと二人で暮らしているときこそが幸せだったように感じた。
畑に四苦八苦したけれど、それでも平穏だった。
少なくとも棒を振るよりは楽だった。
剣術はぼんやりと憧れていたものとは程遠い。苦痛、苦労の連続だ。これならひたすら鍬を振るう方がいいと正直、思っている自分がいた。
この発想は、逃げ、逃避だろうか。
でも逃避して何が悪いのか、と思う自分もいる。
どこで生まれたかもわからない俺が剣術を修めたところで、意味などないのではないか。
復讐とはなんのか、亡霊は俺に語って聞かせることはない。
これもまた、まだ早い、ということなのだろう。
それはそれで腹が立つ。目的を知らずに努力するのは、難しい。自分がどこまで到達しているか、わからないということもある。
しかしもう、俺には他にするべきことはない。
誰のためかも知らないまま、剣術へ打ち込むしかない。
季節が過ぎていき、少しだけ気候が暖かくなる。北部戦域には四季などというものはない。いつも生ぬるい風が吹き、空気は湿り、空は曇っている。
気が滅入る世界。
その日も俺は夜、一人で棒を振っていた。
「もう休んだら?」
背後にレイスがいるのは気づいていた。ささやかとはいえ、足音がしたからだ。
「あと少しやったらな」
そう答えた時だった。
不意に背後から何かが胴に回された。
何かじゃない。人の腕だ。細い腕。
レイスの腕。
レイスの体が背中に密着しているのもわかった。
「たまには休んだ方がいいでしょう? ねぇ」
普段とはまるで違う、甘ったるい声。
いったい、何を考えているのか、すぐにはわからなかった。わかったのは、レイスの手が下へ降りて行った時だ。
わっ、と声を上げてレイスを振りほどいていた。
振り向いて向かい合うと、レイスは夜の闇の中でいやに色っぽい光り方をする目で俺を見ている。
「どう? その気になった?」
その気もどの気も、ない。
「少しは楽しみましょうよ、アルタ」
楽しむ、だって?
「気分じゃない」
咄嗟にそう答えた俺だが、心臓は早鐘を打ち、口の中はいつの間にか乾いていた。
レイスは何を考えているんだ?
そのことを問いかけられないのは、レイスの様子がどう見ても本気だからだ。
本気で俺を襲おうとしている? しかし何故?
「男の子の割に消極的ね」
そう言うとレイスはおかしそうに笑い、「まだ機会はあるわ」と今度こそ諦めた様子で背中を向け、建物へ戻って行った。
ひとりきりになり、俺は呆然としていた。
レイスはなんで俺を? 遊びのつもりか? しかし遊ぶ理由がわからない。
混乱したまま、棒を手に取り直してみたものの、振る気にはなれなかった。
少し時間を潰してから、俺はぼろ家へ戻った。レイスは自分の布団に入って寝ているようだ。
今まで特に考えもせずにすぐ横に布団を並べて寝ていたけど、もしかして俺は純粋すぎただろうか。潔癖すぎたかもしれない。
かといってレイスを襲う気になるわけでもなく、この日はそっと布団をずらしてレイスから離れて眠ることにした。
翌朝、目を覚ますと、すでにレイスは料理の最中で、俺のための白湯も用意されていた。
「昨日だけど」
こちらから声をかけてみるが、レイスはニヤニヤしているだけ。
「もしかして俺を襲ったりしていないよな」
自分でも何を言っているか、わからなかったが、そんな俺に鼻を鳴らすレイスに少し冷や汗がにじむ。
「襲って欲しかった?」
いいや、と答えて白湯を飲み干し、俺はさっさと外へ出た。
どうしてこう、奇妙な事態ばかり出来するのだろう。
誰に何を嘆いていいかわからないまま、俺はいつもの棒を手に取り、いつからそこにいたのか、待ち構えている亡霊の前に進み出た。
剣術の方が、レイスのことを考えるより楽かもしれない。
(続く)
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